でいまだに細君の父母にも細君にも了解されていなかった。
「役に立つばかりが能じゃない。その位の事が解らなくってどうするんだ」
 健三の言葉は勢い権柄《けんぺい》ずくであった。傷《きずつ》けられた細君の顔には不満の色がありありと見えた。
 機嫌の直った時細君はまた健三に向った。――
「そう頭からがみがみいわないで、もっと解るようにいって聞かして下すったら好《い》いでしょう」
「解るようにいおうとすれば、理窟ばかり捏《こ》ね返すっていうじゃないか」
「だからもっと解りやすいように。私に解らないような小六《こむ》ずかしい理窟はやめにして」
「それじゃどうしたって説明しようがない。数字を使わずに算術を遣れと注文するのと同じ事だ」
「だって貴夫の理窟は、他《ひと》を捻《ね》じ伏せるために用いられるとより外に考えようのない事があるんですもの」
「御前の頭が悪いからそう思うんだ」
「私の頭も悪いかも知れませんけれども、中味のない空っぽの理窟で捻じ伏せられるのは嫌《きらい》ですよ」
 二人はまた同じ輪の上をぐるぐる廻り始めた。

     九十三

 面と向って夫としっくり融け合う事の出来ない時、細君はやむをえず彼に背中を向けた。そうして其所《そこ》に寐《ね》ている子供を見た。彼女は思い出したように、すぐその子供を抱き上げた。
 章魚《たこ》のようにぐにゃぐにゃしている肉の塊りと彼女との間には、理窟の壁も分別の牆《かき》もなかった。自分の触れるものが取も直さず自分のような気がした。彼女は温かい心を赤ん坊の上に吐き掛けるために、唇を着けて所嫌わず接吻《せっぷん》した。
「貴夫《あなた》が私《わたくし》のものでなくっても、この子は私の物よ」
 彼女の態度からこうした精神が明らかに読まれた。
 その赤ん坊はまだ眼鼻立《めはなだち》さえ判明《はっきり》していなかった。頭には何時まで待っても殆《ほと》んど毛らしい毛が生えて来なかった。公平な眼から見ると、どうしても一個の怪物であった。
「変な子が出来たものだなあ」
 健三は正直な所をいった。
「どこの子だって生れたては皆なこの通りです」
「まさかそうでもなかろう。もう少しは整ったのも生れるはずだ」
「今に御覧なさい」
 細君はさも自信のあるような事をいった。健三には何という見当も付かなかった。けれども彼は細君がこの赤ん坊のために夜中《やちゅう
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