、人間はそれで好《い》いと思っているんだろう」
「だって役に立たなくっちゃ何にもならないじゃありませんか」
生憎《あいにく》細君の父は役に立つ男であった。彼女の弟もそういう方面にだけ発達する性質《たち》であった。これに反して健三は甚だ実用に遠い生れ付であった。
彼には転宅の手伝いすら出来なかった。大掃除の時にも彼は懐手《ふところで》をしたなり澄ましていた。行李《こうり》一つ絡《から》げるにさえ、彼は細紐《ほそびき》をどう渡すべきものやら分らなかった。
「男のくせに」
動かない彼は、傍《はた》のものの眼に、如何《いか》にも気の利かない鈍物のように映った。彼はなおさら動かなかった。そうして自分の本領を益《ますます》反対の方面に移して行った。
彼はこの見地から、昔し細君の弟を、自分の住んでいる遠い田舎《いなか》へ伴《つ》れて行って教育しようとした。その弟は健三から見ると如何にも生意気であった。家庭のうちを横行して誰にも遠慮会釈がなかった。ある理学士に毎日自宅で課業の復習をしてもらう時、彼はその人の前で構わず胡坐《あぐら》をかいた。またその人の名を何君何君と君づけに呼んだ。
「あれじゃ仕方がない。私《わたくし》に御預けなさい。私が田舎へ連れて行って育てるから」
健三の申出《もうしで》は細君の父によって黙って受け取られた。そうして黙って捨てられた。彼は眼前に横暴を恣《ほしいま》まにする我子を見て、何という未来の心配も抱《いだ》いていないように見えた。彼ばかりか、細君の母も平気であった。細君も一向気に掛ける様子がなかった。
「もし田舎へ遣《や》って貴夫と衝突したり何《なん》かすると、折合が悪くなって、後が困るから、それでやめたんだそうです」
細君の弁解を聞いた時、健三は満更《まんざら》の嘘《うそ》とも思わなかった。けれどもその他《ほか》にまだ意味が残っているようにも考えた。
「馬鹿じゃありません。そんな御世話にならなくっても大丈夫です」
周囲の様子から健三は謝絶の本意がかえって此所《ここ》にあるのではなかろうかと推察した。
なるほど細君の弟は馬鹿ではなかった。むしろ怜悧《りこう》過ぎた。健三にもその点はよく解っていた。彼が自分と細君の未来のために、彼女の弟を教育しようとしたのは、全く見当の違った方面にあった。そうして遺憾ながらその方面は、今日《こんにち》に至るま
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