かしてくれなくっちゃ困る」
「そう他《ひと》にのし懸って来たって仕方がありません。今の私《わたくし》にはそれだけの事をしなければならない因縁《いんねん》も何もないんだから」
 島田は凝《じっ》と健三の顔を見た。半ば探りを入れるような、半ば弱いものを脅かすようなその眼付は、単に相手の心を激昂《げっこう》させるだけであった。健三の態度から深入《ふかいり》の危険を知った島田は、すぐ問題を区切って小さくした。
「永い間の事はまた緩々《ゆるゆる》御話しをするとして、じゃこの急場だけでも一つ」
 健三にはどういう急場が彼らの間に持ち上っているのか解らなかった。
「この暮を越さなくっちゃならないんだ。どこの宅《うち》だって暮になりゃ百と二百と纏《まとま》った金の要《い》るのは当り前だろう」
 健三は勝手にしろという気になった。
「私にそんな金はありませんよ」
「笑談《じょうだん》いっちゃいけない。これだけの構《かまえ》をしていて、その位の融通が利かないなんて、そんなはずがあるもんか」
「あってもなくっても、ないからないというだけの話です」
「じゃいうが、御前の収入は月に八百円あるそうじゃないか」
 健三はこの無茶苦茶な言掛《いいがか》りに怒《おこ》らされるよりはむしろ驚ろかされた。
「八百円だろうが千円だろうが、私の収入は私の収入です。貴方《あなた》の関係した事じゃありません」
 島田は其所《そこ》まで来て黙った。健三の答が自分の予期に外れたというような風も見えた。ずうずうしい割に頭の発達していない彼は、それ以上相手をどうする事も出来なかった。
「じゃいくら困っても助けてくれないというんですね」
「ええ、もう一文も上ません」
 島田は立ち上った。沓脱《くつぬぎ》へ下りて、開けた格子《こうし》を締める時に、彼はまた振り返った。
「もう参上《あが》りませんから」
 最後であるらしい言葉を一句遺した彼の眼は暗い中《うち》に輝やいた。健三は敷居の上に立って明らかにその眼を見下《みおろ》した。しかし彼はその輝きのうちに何らの凄《すご》さも怖ろしさもまた不気味さも認めなかった。彼自身の眸《ひとみ》から出る怒《いか》りと不快とは優にそれらの襲撃を跳ね返すに充分であった。
 細君は遠くから暗《あん》に健三の気色《けしき》を窺《うかが》った。
「一体どうしたんです」
「勝手にするが好《い》いや」

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