「また御金でも呉れろって来たんですか」
「誰が遣《や》るもんか」
 細君は微笑しながら、そっと夫を眺めるような態度を見せた。
「あの御婆《おばあ》さんの方が細く長く続くからまだ安全ね」
「島田の方だって、これで片付くもんかね」
 健三は吐き出すようにこういって、来《きた》るべき次の幕さえ頭の中に予想した。

     九十一

 同時に今まで眠っていた記憶も呼び覚まされずには済まなかった。彼は始めて新らしい世界に臨む人の鋭どい眼をもって、実家へ引き取られた遠い昔を鮮明《あざや》かに眺めた。
 実家の父に取っての健三は、小さな一個の邪魔物であった。何しにこんな出来損《できそこな》いが舞い込んで来たかという顔付をした父は、殆《ほと》んど子としての待遇を彼に与えなかった。今までと打って変った父のこの態度が、生《うみ》の父に対する健三の愛情を、根こぎにして枯らしつくした。彼は養父母の手前始終自分に対してにこにこしていた父と、厄介物を背負《しょ》い込んでからすぐ慳貪《けんどん》に調子を改めた父とを比較して一度は驚ろいた。次には愛想《あいそ》をつかした。しかし彼はまだ悲観する事を知らなかった。発育に伴なう彼の生気は、いくら抑え付けられても、下からむくむくと頭を擡《もた》げた。彼は遂に憂欝《ゆううつ》にならずに済んだ。
 子供を沢山|有《も》っていた彼の父は、毫《ごう》も健三に依怙《かか》る気がなかった。今に世話になろうという下心のないのに、金を掛けるのは一銭でも惜しかった。繋《つな》がる親子の縁で仕方なしに引き取ったようなものの、飯を食わせる以外に、面倒を見て遣《や》るのは、ただ損になるだけであった。
 その上肝心の本人は帰って来ても籍は復《もど》らなかった。いくら実家で丹精して育て上たにしたところで、いざという時に、また伴《つ》れて行かれればそれまでであった。
「食わすだけは仕方がないから食わして遣る。しかしその外の事はこっちじゃ構えない。先方《むこう》でするのが当然だ」
 父の理窟はこうであった。
 島田はまた島田で自分に都合の好《い》い方からばかり事件の成行《なりゆき》を観望していた。
「なに実家へ預けて置きさえすればどうにかするだろう。その内健三が一人前になって少しでも働らけるようになったら、その時|表沙汰《おもてざた》にしてでもこっちへ奪還《ふんだ》くってしまえばそれ
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