りしていた。詩として彼の頭をぼうっと侵すだけであった。それをもっと明瞭《めいりょう》になるまで理解の力で押し詰めて行けば、その身代りは取も直さず赤ん坊の母親に違なかった。次には赤ん坊の父親でもあった。けれども今の健三は其所《そこ》まで行く気はなかった。ただ自分の前にいる老人にだけ意味のある眼《まなこ》を注いだ。何のために生きているか殆《ほと》んど意義の認めようのないこの年寄は、身代りとして最も適当な人間に違なかった。
「どういう訳でこう丈夫なのだろう」
健三は殆んど自分の想像の残酷さ加減さえ忘れてしまった。そうして人並でないわが健康状態については、毫《ごう》も責任がないものの如き忌々《いまいま》しさを感じた。その時島田は彼に向って突然こういった。――
「御縫《おぬい》もとうとう亡くなってね。御祝儀は済んだが」
とても助からないという事だけは、脊髄病《せきずいびょう》という名前から推《お》して、とうに承知していたようなものの、改まってそういわれて見ると、健三も急に気の毒になった。
「そうですか。可愛想《かわいそう》に」
「なに病気が病気だからとても癒《なお》りっこないんです」
島田は平然としていた。死ぬのが当り前だといったように烟草の輪を吹いた。
九十
しかしこの不幸な女の死に伴なって起る経済上の影響は、島田に取って死そのものよりも遥《はるか》に重大であった。健三の予想はすぐ事実となって彼の前に現れなければならなかった。
「それについて是非一つ聞いてもらわないと困る事があるんですが」
此所《ここ》まで来て健三の顔を見た島田の様子は緊張していた。健三は聴かない先からその後《あと》を推察する事が出来た。
「また金でしょう」
「まあそうで。御縫が死んだんで、柴野と御藤との縁が切れちまったもんだから、もう今までのように月々送らせる訳に行かなくなったんでね」
島田の言葉は変にぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]になったり、また鄭寧《ていねい》になったりした。
「今までは金鵄勲章《きんしくんしょう》の年金だけはちゃんちゃんとこっちへ来たんですがね。それが急になくなると、まるで目的《あて》が外れるような始末で、私《わたし》も困るんです」
彼はまた調子を改めた。
「とにかくこうなっちゃ、御前を措《お》いてもう外に世話をしてもらう人は誰もありゃしない。だからどう
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