も見当《みあた》らないらしかった。
「何しろ取高《とりだか》が少ないもんですから仕方が御座いません。もう少し稼《かせ》いでくれると好《い》いのですけれども」
彼女は自分の娘婿を捉《つら》まえて愚図だとも無能《やくざ》だともいわない代りに、毎月彼の労力が産み出す収入の高を健三の前に並べて見せた。あたかも物指《ものさし》で反物の寸法さえ計れば、縞柄《しまがら》だの地質だのは、まるで問題にならないといった風に。
生憎《あいにく》健三はそうした尺度で自分を計ってもらいたくない商売をしている男であった。彼は冷淡に彼女の不平を聞き流さなければならなかった。
八十八
好い加減な時分に彼は立って書斎に入った。机の上に載せてある紙入を取って、そっと中を改めると、一枚の五円札があった。彼はそれを手に握ったまま元の座敷へ帰って、御常の前へ置いた。
「失礼ですがこれで俥《くるま》へでも乗って行って下さい」
「そんな御心配を掛けては済みません。そういうつもりで上《あが》ったのでは御座いませんから」
彼女は辞退の言葉と共に紙幣を受け納めて懐《ふところ》へ入れた。
小遣を遣《や》る時の健三がこの前と同じ挨拶《あいさつ》を用いたように、それを貰《もら》う御常の辞令も最初と全く違わなかった。その上偶然にも五円という金高《かねだか》さえ一致していた。
「この次来た時に、もし五円札がなかったらどうしよう」
健三の紙入がそれだけの実質で始終充たされていない事はその所有主の彼に知れているばかりで、御常に分るはずがなかった。三度目に来る御常を予想した彼が、三度目に遣る五円を予想する訳に行かなかった時、彼はふと馬鹿々々しくなった。
「これからあの人が来ると、何時でも五円遣らなければならないような気がする。つまり姉が要《い》らざる義理立《ぎりだて》をするのと同じ事なのかしら」
自分の関係した事じゃないといった風に熨斗《ひのし》を動かしていた細君は、手を休めずにこういった。――
「ないときは遣らないでも好《い》いじゃありませんか。何もそう見栄《みえ》を張る必要はないんだから」
「ない時に遣ろうったって、遣れないのは分ってるさ」
二人の問答はすぐ途切れてしまった。消えかかった炭を熨斗《ひのし》から火鉢《ひばち》へ移す音がその間に聞こえた。
「どうしてまた今日は五円入っていたんです。貴夫《
前へ
次へ
全172ページ中147ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング