ころもあった。
「酒でも飲むんじゃなかろうか」
 こんな推察さえ彼の胸を横切った。
 御常の肌身《はだみ》に着けているものは悉《ことご》とく古びていた。幾度《いくたび》水を潜《くぐ》ったか分らないその着物なり羽織《はおり》なりは、どこかに絹の光が残っているようで、また変にごつごつしていた。ただどんなに時代を食っても、綺麗《きれい》に洗張《あらいはり》が出来ている所に彼女の気性が見えるだけであった。健三は丸いながら如何《いか》にも窮屈そうなその人の姿を眺めて、彼女の生活状態と彼女の口に距離のない事を知った。
「どこを見ても困る人だらけで弱りますね」
「こちらなどが困っていらしっちゃあ、世の中に困らないものは一人も御座いません」
 健三は弁解する気にさえならなかった。彼はすぐ考えた。
「この人は己《おれ》を自分より金持と思っているように、己を自分より丈夫だとも思っているのだろう」
 近頃の健三は実際健康を損《そこ》なっていた。それを自覚しつつ彼は医者にも診《み》てもらわなかった。友達にも話さなかった。ただ一人で不愉快を忍んでいた。しかし身体の未来を想像するたんびに彼はむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した。或時は他《ひと》が自分をこんなに弱くしてしまったのだというような気を起して、相手のないのに腹を立てた。
「年が若くって起居《たちい》に不自由さえなければ丈夫だと思うんだろう。門構《もんがまえ》の宅《うち》に住んで下女《げじょ》さえ使っていれば金でもあると考えるように」
 健三は黙って御常の顔を眺めていた。同時に彼は新らしく床《とこ》の間《ま》に飾られた花瓶《はないけ》とその後に懸っている懸額《かけがく》とを眺めた。近いうちに袖《そで》を通すべきぴかぴかする反物《たんもの》も彼の心のうちにあった。彼は何故《なぜ》この年寄に対して同情を起し得ないのだろうかと怪しんだ。
「ことによると己の方が不人情なのかも知れない」
 彼は姉の上に加えた評をもう一遍腹の中で繰り返した。そうして「何不人情でも構うものか」という答を得た。
 御常は自分の厄介になっている娘婿の事について色々な話をし始めた。世間一般によく見る通り、その人の手腕《うで》がすぐ彼女の問題になった。彼女の手腕というのは、つまり月々入る金の意味で、その金より外に人間の価値を定めるものは、彼女に取って、広い世界に一つ
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