彼はまた本郷通りにある一軒の呉服屋へ行って反物《たんもの》を買った。織物について何の知識もない彼はただ番頭が見せてくれるもののうちから、好《い》い加減な選択をした。それはむやみに光る絣《かすり》であった。幼稚な彼の眼には光らないものより光るものの方が上等に見えた。番頭に揃《そろ》いの羽織《はおり》と着物を拵《こしら》えるべく勧められた彼は、遂に一匹の伊勢崎銘仙《いせざきめいせん》を抱えて店を出た。その伊勢崎銘仙という名前さえ彼はそれまでついぞ聞いた事がなかった。
 これらの物を買い調《ととの》えた彼は毫《ごう》も他人について考えなかった。新らしく生れる子供さえ眼中になかった。自分より困っている人の生活などはてんから忘れていた。俗社会の義理を過重《かちょう》する姉に比べて見ると、彼は憐《あわ》れなものに対する好意すら失なっていた。
「そう損をしてまでも義理が尽されるのは偉いね。しかし姉は生れ付いての見栄坊《みえぼう》なんだから、仕方がない。偉くない方がまだ増しだろう」
「親切気《しんせつぎ》はまるでないんでしょうか」
「そうさな」
 健三はちょっと考えなければならなかった。姉は親切気のある女に違いなかった。
「ことによると己《おれ》の方が不人情に出来ているのかも知れない」

     八十七

 この会話がまだ健三の記憶を新しく彩《いろど》っていた頃、彼は御常《おつね》から第二回の訪問を受けた。
 先達《せんだっ》て見た時とほぼ同じように粗末な服装《なり》をしている彼女の恰好《かっこう》は、寒さと共に襦袢胴着《じゅばんどうぎ》の類でも重ねたのだろう、前よりは益《ますます》丸まっちくなっていた。健三は客のために出した火鉢《ひばち》をすぐその人の方へ押し遣《や》った。
「いえもう御構い下さいますな。今日《きょう》は大分《だいぶ》御暖《おあった》かで御座いますから」
 外部《そと》には穏やかな日が、障子に篏《はめ》めた硝子越《ガラスごし》に薄く光っていた。
「あなたは年を取って段々御肥《おふと》りになるようですね」
「ええ御蔭さまで身体《からだ》の方はまことに丈夫で御座います」
「そりゃ結構です」
「その代り身上《しんしょう》の方はただ痩《や》せる一方で」
 健三には老後になってからこうむくむく肥る人の健康が疑がわれた。少なくとも不自然に思われた。どこか不気味に見えると
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