あなた》の紙入《かみいれ》に」
健三は床の間に釣り合わない大きな朱色の花瓶《はないけ》を買うのに四円いくらか払った。懸額《かけがく》を誂《あつ》らえるとき五円なにがしか取られた。指物師《さしものし》が百円に負けて置くから買わないかといった立派な紫檀《したん》の書棚をじろじろ見ながら、彼はその二十分の一にも足らない代価を大事そうに懐中から出して匠人《しょうにん》の手に渡した。彼はまたぴかぴかする一匹の伊勢崎銘仙《いせざきめいせん》を買うのに十円余りを費やした。友達から受取った原稿料がこう形を変えたあとに、手垢《てあか》の付いた五円札がたった一枚残ったのである。
「実はまだ買いたいものがあるんだがな」
「何を御買いになるつもりだったの」
健三は細君の前に特別な品物の名前を挙げる事が出来なかった。
「沢山あるんだ」
慾に際限のない彼の言葉は簡単であった。夫と懸け離れた好尚を有《も》っている細君は、それ以上追窮する面倒を省いた代りに、外の質問を彼に掛けた。
「あの御婆《おばあ》さんは御姉《おあねえ》さんなんぞよりよっぽど落ち付いているのね。あれじゃ島田って人と宅《うち》で落ち合っても、そう喧嘩《けんか》もしないでしょう」
「落ち合わないからまだ仕合せなんだ。二人が一所の座敷で顔を見合せでもして見るがいい、それこそ堪《たま》らないや。一人ずつ相手にしているんでさえ沢山な所へ持って来て」
「今でもやっぱり喧嘩が始まるでしょうか」
「喧嘩はとにかく、己《おれ》の方が厭《いや》じゃないか」
「二人ともまだ知らないようね。片っ方が宅《うち》へ来る事を」
「どうだか」
島田はかつて御常の事を口にしなかった。御常も健三の予期に反して、島田については何にも語らなかった。
「あの御婆さんの方がまだあの人より好《い》いでしょう」
「どうして」
「五円貰うと黙って帰って行くから」
島田の請求慾の訪問ごとに増長するのに比べると、御常の態度は尋常に違なかった。
八十九
日ならず鼻の下の長い島田の顔がまた健三の座敷に現われた時、彼はすぐ御常の事を聯想《れんそう》した。
彼らだって生れ付いての敵《かたき》同志でない以上、仲の好《い》い昔もあったに違ない。他《ひと》から爪《つめ》に灯《ひ》を点《とも》すようだといわれるのも構わずに、金ばかり溜《た》めた当時は、どんなに楽しかった
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