であった字が次第に蟻《あり》の頭ほどに縮まって来た。何故《なぜ》そんな小さな文字を書かなければならないのかとさえ考えて見なかった彼は、殆《ほと》んど無意味に洋筆《ペン》を走らせてやまなかった。日の光りの弱った夕暮の窓の下、暗い洋燈《ランプ》から出る薄い灯火《ともしび》の影、彼は暇さえあれば彼の視力を濫費《らんぴ》して顧みなかった。細君に向ってした注意をかつて自分に払わなかった彼は、それを矛盾とも何とも思わなかった。細君もそれで平気らしく見えた。

     八十五

 細君の床が上げられた時、冬はもう荒れ果てた彼らの庭に霜柱の錐《きり》を立てようとしていた。
「大変荒れた事、今年は例《いつも》より寒いようね」
「血が少なくなったせいで、そう思うんだろう」
「そうでしょうかしら」
 細君は始めて気が付いたように、両手を火鉢《ひばち》の上に翳《かざ》して、自分の爪《つめ》の色を見た。
「鏡を見たら顔の色でも分りそうなものだのにね」
「ええ、そりゃ分ってますわ」
 彼女は再び火の上に差し延べた手を返して蒼白《あおしろ》い頬《ほお》を二、三度|撫《な》でた。
「しかし寒い事も寒いんでしょう、今年は」
 健三には自分の説明を聴かない細君が可笑《おか》しく見えた。
「そりゃ冬だから寒いに極《きま》まっているさ」
 細君を笑う健三はまた人よりも一倍寒がる男であった。ことに近頃の冬は彼の身体《からだ》に厳しく中《あた》った。彼はやむをえず書斎に炬燵《こたつ》を入れて、両膝《りょうひざ》から腰のあたりに浸《し》み込む冷《ひえ》を防いだ。神経衰弱の結果こう感ずるのかも知れないとさえ思わなかった彼は、自分に対する注意の足りない点において、細君と異《かわ》る所がなかった。
 毎朝夫を送り出してから髪に櫛《くし》を入れる細君の手には、長い髪の毛が何本となく残った。彼女は梳《す》くたびに櫛の歯に絡《から》まるその抜毛を残り惜気《おしげ》に眺めた。それが彼女には失なわれた血潮よりもかえって大切らしく見えた。
「新らしく生きたものを拵《こしら》え上げた自分は、その償いとして衰えて行かなければならない」
 彼女の胸には微《かす》かにこういう感じが湧《わ》いた。しかし彼女はその微かな感じを言葉に纏《まと》めるほどの頭を有《も》っていなかった。同時にその感じには手柄をしたという誇りと、罰を受けたという恨
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