さんじょく》を離れ得ない彼女の前に慰藉《いしゃ》の言葉を並べなければならなかった。しかし彼の理解力は依然としてこの同情とは別物であった。細君の涙を拭《ふ》いてやった彼は、その涙で自分の考えを訂正する事が出来なかった。
次に顔を合せた時、細君は突然夫の弱点を刺した。
「貴夫|何故《なぜ》その子を抱いて御遣りにならないの」
「何だか抱くと険呑《けんのん》だからさ。頸《くび》でも折ると大変だからね」
「嘘《うそ》を仰しゃい。貴夫には女房や子供に対する情合《じょうあい》が欠けているんですよ」
「だって御覧な、ぐたぐたして抱き慣《つ》けない男に手なんか出せやしないじゃないか」
実際赤ん坊はぐたぐたしていた。骨などはどこにあるかまるで分らなかった。それでも細君は承知しなかった。彼女は昔し一番目の娘に水疱瘡《みずぼうそう》の出来た時、健三の態度が俄《にわ》かに一変した実例を証拠に挙げた。
「それまで毎日抱いて遣っていたのに、それから急に抱かなくなったじゃありませんか」
健三は事実を打ち消す気もなかった。同時に自分の考えを改めようともしなかった。
「何といったって女には技巧があるんだから仕方がない」
彼は深くこう信じていた。あたかも自分自身は凡《すべ》ての技巧から解放された自由の人であるかのように。
八十四
退屈な細君は貸本屋から借りた小説を能《よ》く床の上で読んだ。時々枕元に置いてある厚紙の汚ならしいその表紙が健三の注意を惹《ひ》く時、彼は細君に向って訊《き》いた。
「こんなものが面白いのかい」
細君は自分の文学趣味の低い事を嘲《あざ》けられるような気がした。
「いいじゃありませんか、貴夫《あなた》に面白くなくったって、私《わたくし》にさえ面白けりゃ」
色々な方面において自分と夫の隔離を意識していた彼女は、すぐこんな口が利きたくなった。
健三の所へ嫁《とつ》ぐ前の彼女は、自分の父と自分の弟と、それから官邸に出入《でいり》する二、三の男を知っているぎりであった。そうしてその人々はみんな健三とは異《ちが》った意味で生きて行くものばかりであった。男性に対する観念をその数人から抽象して健三の所へ持って来た彼女は、全く予期と反対した一個の男を、彼女の夫において見出した。彼女はそのどっちかが正しくなければならないと思った。無論彼女の眼には自分の父の方が正しい男の
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