「死んだ方が好ければ何時でも死にます」
「それは御随意だ」
 夫の言葉を笑談《じょうだん》半分に聴いていられるようになった細君は、自分の生命に対して鈍いながらも一種の危険を感じたその当時を顧みなければならなかった。
「実際|今度《こんだ》は死ぬと思ったんですもの」
「どういう訳で」
「訳はないわ、ただ思うのに」
 死ぬと思ったのにかえって普通の人より軽い産をして、予想と事実が丁度裏表になった事さえ、細君は気に留めていなかった。
「御前は呑気《のんき》だね」
「貴夫《あなた》こそ呑気よ」
 細君は嬉《うれ》しそうに自分の傍《そば》に寐《ね》ている赤ん坊の顔を見た。そうして指の先で小さい頬片《ほっぺた》を突《つっ》ついて、あやし始めた。その赤ん坊はまだ人間の体裁を具えた眼鼻《めはな》を有《も》っているとはいえないほど変な顔をしていた。
「産が軽いだけあって、少し小さ過ぎるようだね」
「今に大きくなりますよ」
 健三はこの小さい肉の塊りが今の細君のように大きくなる未来を想像した。それは遠い先にあった。けれども中途で命の綱が切れない限り何時か来るに相違なかった。
「人間の運命はなかなか片付かないもんだな」
 細君には夫の言葉があまりに突然過ぎた。そうしてその意味が解らなかった。
「何ですって」
 健三は彼女の前に同じ文句を繰り返すべく余儀なくされた。
「それがどうしたの」
「どうしもしないけれども、そうだからそうだというのさ」
「詰らないわ。他《ひと》に解らない事さえいいや、好《い》いかと思って」
 細君は夫を捨ててまた自分の傍に赤ん坊を引き寄せた。健三は厭《いや》な顔もせずに書斎へ入った。
 彼の心のうちには死なない細君と、丈夫な赤ん坊の外に、免職になろうとしてならずにいる兄の事があった。喘息《ぜんそく》で斃《たお》れようとしてまだ斃れずにいる姉の事があった。新らしい位地が手に入《い》るようでまだ手に入らない細君の父の事があった。その他《た》島田の事も御常《おつね》の事もあった。そうして自分とこれらの人々との関係が皆なまだ片付かずにいるという事もあった。

     八十三

 子供は一番気楽であった。生きた人形でも買ってもらったように喜んで、閑《ひま》さえあると、新らしい妹《いもと》の傍《そば》に寄りたがった。その妹の瞬《またた》き一つさえ驚嘆の種になる彼らには、嚏《く
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