いになったものだから、足りなくって大変困りましたよ」
「そうだろう。随分驚ろいたからね」
 こう答えながら健三は大して気の毒な思いもしなかった。それよりも多量に血を失なって蒼《あお》い顔をしている細君の方が懸念の種になった。
「どうだ」
 細君は微《かす》かに眼を開けて、枕の上で軽く肯《うな》ずいた。健三はそのまま外へ出た。
 例刻に帰った時、彼は洋服のままでまた細君の枕元に坐《すわ》った。
「どうだ」
 しかし細君はもう肯ずかなかった。
「何だか変なようです」
 彼女の顔は今朝見た折と違って熱で火照《ほて》っていた。
「心持が悪いのかい」
「ええ」
「産婆を呼びに遣ろうか」
「もう来るでしょう」
 産婆は来るはずになっていた。

     八十二

 やがて細君の腋《わき》の下に験温器が宛《あて》がわれた。
「熱が少し出ましたね」
 産婆はこういって度盛《どもり》の柱の中に上《のぼ》った水銀を振り落した。彼女は比較的言葉|寡《ずく》なであった。用心のため産科の医者を呼んで診《み》てもらったらどうだという相談さえせずに帰ってしまった。
「大丈夫なのかな」
「どうですか」
 健三は全くの無知識であった。熱さえ出ればすぐ産褥熱《さんじょくねつ》じゃなかろうかという危惧《きぐ》の念を起した。母から掛り付けて来た産婆に信頼している細君の方がかえって平気であった。
「どうですかって、御前の身体《からだ》じゃないか」
 細君は何とも答えなかった。健三から見ると、死んだって構わないという表情がその顔に出ているように思えた。
「人がこんなに心配して遣《や》るのに」
 この感じを翌《あく》る日まで持ち続けた彼は、何時もの通り朝早く出て行った。そうして午後に帰って来て、細君の熱がもう退《さ》めている事に気が付いた。
「やっぱり何でもなかったのかな」
「ええ。だけど何時また出て来るか分りませんわ」
「産をすると、そんなに熱が出たり引っ込んだりするものかね」
 健三は真面目《まじめ》であった。細君は淋《さび》しい頬《ほお》に微笑を洩《も》らした。
 熱は幸《さいわい》にしてそれぎり出なかった。産後の経過は先ず順当に行った。健三は既定の三週間を床の上に過すべく命ぜられた細君の枕元へ来て、時々話をしながら坐《すわ》った。
「今度《こんだ》は死ぬ死ぬっていいながら、平気で生きているじゃないか」

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