かな光を薄暗く室内に投げた。健三の眼を落している辺《あたり》は、夜具の縞柄《しまがら》さえ判明《はっきり》しないぼんやりした陰で一面に裹《つつ》まれていた。
 彼は狼狽《ろうばい》した。けれども洋燈を移して其所《そこ》を輝《てら》すのは、男子の見るべからざるものを強《し》いて見るような心持がして気が引けた。彼はやむをえず暗中に摸索した。彼の右手は忽《たちま》ち一種異様の触覚をもって、今まで経験した事のない或物に触れた。その或物は寒天のようにぷりぷりしていた。そうして輪廓からいっても恰好《かっこう》の判然しない何かの塊《かたまり》に過ぎなかった。彼は気味の悪い感じを彼の全身に伝えるこの塊を軽く指頭で撫《な》でて見た。塊りは動きもしなければ泣きもしなかった。ただ撫でるたんびにぷりぷりした寒天のようなものが剥《は》げ落ちるように思えた。もし強く抑えたり持ったりすれば、全体がきっと崩れてしまうに違ないと彼は考えた。彼は恐ろしくなって急に手を引込《ひっこ》めた。
「しかしこのままにして放って置いたら、風邪《かぜ》を引くだろう、寒さで凍《こご》えてしまうだろう」
 死んでいるか生きているかさえ弁別《みわけ》のつかない彼にもこういう懸念が湧《わ》いた。彼は忽ち出産の用意が戸棚の中《うち》に入れてあるといった細君の言葉を思い出した。そうしてすぐ自分の後部《うしろ》にある唐紙《からかみ》を開けた。彼は其所から多量の綿を引き摺《ず》り出した。脱脂綿という名さえ知らなかった彼は、それをむやみに千切《ちぎ》って、柔かい塊の上に載せた。

     八十一

 その内|待《まち》に待った産婆が来たので、健三は漸《ようや》く安心して自分の室《へや》へ引き取った。
 夜《よ》は間もなく明けた。赤子《あかご》の泣く声が家の中の寒い空気を顫《ふる》わせた。
「御安産で御目出とう御座います」
「男かね女かね」
「女の御子さんで」
 産婆は少し気の毒そうに中途で句を切った。
「また女か」
 健三にも多少失望の色が見えた。一番目が女、二番目が女、今度生れたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中《うち》で暗《あん》に細君を非難した。しかしそれを生ませた自分の責任には思い到《いた》らなかった。
 田舎《いなか》で生まれた長女は肌理《きめ》の濃《こま》やかな
前へ 次へ
全172ページ中135ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング