健三にはどの位な程度で細君の腹が痛んでいるのか分らなかった。彼は寒い夜の中に夜具から顔だけ出して、細君の様子をそっと眺めた。
「少し撫《さす》って遣《や》ろうか」
起き上る事の臆劫《おっくう》な彼は出来るだけ口先で間に合せようとした。彼は産についての経験をただ一度しか有《も》っていなかった。その経験も大方は忘れていた。けれども長女の生れる時には、こういう痛みが、潮の満干《みちひ》のように、何度も来たり去ったりしたように思えた。
「そう急に生れるもんじゃないだろうな、子供ってものは。一仕切《ひとしきり》痛んではまた一仕切治まるんだろう」
「何だか知らないけれども段々痛くなるだけですわ」
細君の態度は明らかに彼女の言葉を証拠立てた。凝《じっ》と蒲団《ふとん》の上に落付《おちつ》いていられない彼女は、枕を外して右を向いたり左へ動いたりした。男の健三には手の着けようがなかった。
「産婆を呼ぼうか」
「ええ、早く」
職業柄産婆の宅《うち》には電話が掛っていたけれども、彼の家にそんな気の利いた設備のあろうはずはなかった。至急を要する場合が起るたびに、彼は何時でも掛りつけの近所の医者の所へ馳《か》け付けるのを例にしていた。
初冬《はつふゆ》の暗い夜はまだ明け離れるのに大分《だいぶ》間があった。彼はその人とその人の門《かど》を敲《たた》く下女《げじょ》の迷惑を察した。しかし夜明《よあけ》まで安閑と待つ勇気がなかった。寝室の襖《ふすま》を開けて、次の間から茶の間を通って、下女部屋の入口まで来た彼は、すぐ召使の一人を急《せ》き立てて暗い夜の中へ追い遣った。
彼が細君の枕元へ帰って来た時、彼女の痛みは益《ますます》劇《はげ》しくなった。彼の神経は一分ごとに門前で停《とま》る車の響を待ち受けなければならないほどに緊張して来た。
産婆は容易に来なかった。細君の唸《うな》る声が絶間《たえま》なく静かな夜の室《へや》を不安に攪《か》き乱した。五分経つか経たないうちに、彼女は「もう生れます」と夫に宣告した。そうして今まで我慢に我慢を重ねて怺《こら》えて来たような叫び声を一度に揚げると共に胎児を分娩《ぶんべん》した。
「確《しっ》かりしろ」
すぐ立って蒲団の裾《すそ》の方に廻った健三は、どうして好《い》いか分らなかった。その時例の洋燈《ランプ》は細長い火蓋《ほや》の中で、死のように静
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