伏《うつぶせ》になって倒れている細君を抱き起して床の上まで連れて来た。真夜中に雨戸を一枚明けた縁側の端《はじ》に蹲踞《うずくま》っている彼女を、後《うしろ》から両手で支えて、寝室へ戻って来た経験もあった。
 そんな時に限って、彼女の意識は何時でも朦朧《もうろう》として夢よりも分別がなかった。瞳孔《どうこう》が大きく開いていた。外界はただ幻影《まぼろし》のように映るらしかった。
 枕辺《まくらべ》に坐《すわ》って彼女の顔を見詰めている健三の眼には何時でも不安が閃《ひら》めいた。時としては不憫《ふびん》の念が凡《すべ》てに打ち勝った。彼は能《よ》く気の毒な細君の乱れかかった髪に櫛《くし》を入れて遣《や》った。汗ばんだ額を濡《ぬ》れ手拭《てぬぐい》で拭《ふ》いて遣った。たまには気を確《たしか》にするために、顔へ霧を吹き掛けたり、口移しに水を飲ませたりした。
 発作の今よりも劇《はげ》しかった昔の様も健三の記憶を刺戟《しげき》した。
 或時の彼は毎夜細い紐《ひも》で自分の帯と細君の帯とを繋《つな》いで寐《ね》た。紐の長さを四尺ほどにして、寐返《ねがえ》りが充分出来るように工夫されたこの用意は、細君の抗議なしに幾晩も繰り返された。
 或時の彼は細君の鳩尾《みぞおち》へ茶碗《ちゃわん》の糸底を宛《あて》がって、力任せに押し付けた。それでも踏ん反《ぞ》り返ろうとする彼女の魔力をこの一点で喰《く》い留めなければならない彼は冷たい油汗を流した。
 或時の彼は不思議な言葉を彼女の口から聞かされた。
「御天道《おてんとう》さまが来ました。五|色《しき》の雲へ乗って来ました。大変よ、貴夫《あなた》」
「妾《わたし》の赤ん坊は死んじまった。妾の死んだ赤ん坊が来たから行かなくっちゃならない。そら其所《そこ》にいるじゃありませんか。桔槹《はねつるべ》の中に。妾ちょっと行って見て来るから放して下さい」
 流産してから間もない彼女は、抱き竦《すく》めにかかる健三の手を振り払って、こういいながら起き上がろうとしたのである。……
 細君の発作は健三に取っての大いなる不安であった。しかし大抵の場合にはその不安の上に、より大いなる慈愛の雲が靉靆《たなび》いていた。彼は心配よりも可哀想《かわいそう》になった。弱い憐《あわ》れなものの前に頭を下げて、出来得る限り機嫌を取った。細君も嬉《うれ》しそうな顔をした。

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