だから発作に故意だろうという疑の掛からない以上、また余りに肝癪《かんしゃく》が強過ぎて、どうでも勝手にしろという気にならない以上、最後にその度数が自然の同情を妨げて、何でそう己《おれ》を苦しめるのかという不平が高まらない以上、細君の病気は二人の仲を和らげる方法として、健三に必要であった。
不幸にして細君の父と健三との間にはこういう重宝な緩和剤が存在していなかった。従って細君が本《もと》で出来た両者の疎隔は、たとい夫婦関係が常に復した後《あと》でも、ちょっと埋める訳に行かなかった。それは不思議な現象であった。けれども事実に相違なかった。
七十九
不合理な事の嫌《きらい》な健三は心の中《うち》でそれを苦に病んだ。けれども別にどうする了簡《りょうけん》も出さなかった。彼の性質はむき[#「むき」に傍点]でもあり一図でもあったと共に頗《すこぶ》る消極的な傾向を帯びていた。
「己《おれ》にそんな義務はない」
自分に訊《き》いて、自分に答を得た彼は、その答を根本的なものと信じた。彼は何時までも不愉快の中で起臥《きが》する決心をした。成行《なりゆき》が自然に解決を付けてくれるだろうとさえ予期しなかった。
不幸にして細君もまたこの点においてどこまでも消極的な態度を離れなかった。彼女は何か事件があれば動く女であった。他《ひと》から頼まれて男より邁進《まいしん》する場合もあった。しかしそれは眼前に手で触れられるだけの明瞭《めいりょう》な或物を捉《つら》まえた時に限っていた。ところが彼女の見た夫婦関係には、そんな物がどこにも存在していなかった。自分の父と健三の間にもこれというほどの破綻《はたん》は認められなかった。大きな具象的な変化でなければ事件と認めない彼女はその他《た》を閑却した。自分と、自分の父と、夫との間に起る精神状態の動揺は手の着けようのないものだと観じていた。
「だって何にもないじゃありませんか」
裏面にその動揺を意識しつつ彼女はこう答えなければならなかった。彼女に最も正当と思われたこの答が、時として虚偽の響をもって健三の耳を打つ事があっても、彼女は決して動かなかった。しまいにどうなっても構わないという投《な》げ遣《や》りの気分が、単に消極的な彼女をなおの事消極的に練り堅めて行った。
かくして夫婦の態度は悪い所で一致した。相互の不調和を永続するために
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