と歩いて行った。そうしてついぞ見た事もない新開地のような汚ない、町の中へ入った。東京で生れた彼は方角の上において、自分の今踏んでいる場所を能く弁《わきま》えていた。けれども其所《そこ》には彼の追憶を誘《いざな》う何物も残っていなかった。過去の記念が悉《ことごと》く彼の眼から奪われてしまった大地の上を、彼は不思議そうに歩いた。
彼は昔あった青田と、その青田の間を走る真直《まっすぐ》な径《こみち》とを思い出した。田の尽る所には三、四軒の藁葺屋根《わらぶきやね》が見えた。菅笠《すげがさ》を脱いで床几《しょうぎ》に腰を掛けながら、心太《ところてん》を食っている男の姿などが眼に浮んだ。前には野原のように広い紙漉場《かみすきば》があった。其所を折れ曲って町つづきへ出ると、狭い川に橋が懸っていた。川の左右は高い石垣で積み上げられているので、上から見下す水の流れには存外の距離があった。橋の袂《たもと》にある古風な銭湯の暖簾《のれん》や、その隣の八百屋《やおや》の店先に並んでいる唐茄子《とうなす》などが、若い時の健三によく広重《ひろしげ》の風景画を聯想《れんそう》させた。
しかし今では凡《すべ》てのものが夢のように悉く消え失せていた。残っているのはただ大地ばかりであった。
「何時こんなに変ったんだろう」
人間の変って行く事にのみ気を取られていた健三は、それよりも一層|劇《はげ》しい自然の変り方に驚ろかされた。
彼は子供の時分|比田《ひだ》と将棋を差した事を偶然思いだした。比田は盤に向うと、これでも所沢《ところざわ》の藤吉《とうきち》さんの御弟子だからなというのが癖であった。今の比田も将棋盤を前に置けば、きっと同じ事をいいそうな男であった。
「己《おれ》自身は必竟《ひっきょう》どうなるのだろう」
衰ろえるだけで案外変らない人間のさまと、変るけれども日に栄えて行く郊外の様子とが、健三に思いがけない対照の材料を与えた時、彼は考えない訳に行かなかった。
七十
元気のない顔をして宅《うち》へ帰って来た彼の様子がすぐ細君の注意を惹《ひ》いた。
「御病人はどうなの」
あるゆる人間が何時か一度は到着しなければならない最後の運命を、彼女は健三の口から判然《はっきり》聞こうとするように見えた。健三は答を与える先に、まず一種の矛盾を意識した。
「何もう好《い》いんだ。寐《ね》て
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