もありゃしない」
彼はそう思って姉の凹《くぼ》み込んだ眼と、痩《こ》けた頬《ほお》と、肉のない細い手とを、微笑しながら見ていた。
六十九
姉は細かい所に気の付く女であった。従って細かい事にまでよく好奇心を働らかせたがった。一面において馬鹿正直な彼女は、一面においてまた変な廻《まわ》り気《ぎ》を出す癖を有《も》っていた。
健三が外国から帰って来た時、彼女は自家の生計について、他《ひと》の同情に訴え得るような憐《あわ》れっぽい事実を彼の前に並べた。しまいに兄の口を借りて、いくらでも好《い》いから月々自分の小遣として送ってくれまいかという依頼を持ち出した。健三は身分相応な額を定めた上、また兄の手を経て先方へその旨を通知してもらう事にした。すると姉から手紙が来た。長《ちょう》さんの話では御前さんが月々いくらいくら私《わたし》に遣《や》るという事だが、実際御前さんの、呉れるといった金高《かねだか》はどの位なのか、長さんに内所《ないしょ》でちょっと知らせてくれないかと書いてあった。姉はこれから毎月|中取次《なかとりつぎ》をする役に当るかも知れない兄の心事を疑ぐったのである。
健三は馬鹿々々しく思った。腹立しくも感じた。しかし何より先に浅間《あさま》しかった。「黙っていろ」と怒鳴り付けて遣りたくなった。彼の姉に宛《あ》てた返事は、一枚の端書に過ぎなかったけれども、こうした彼の気分を能《よ》く現わしていた。姉はそれぎり何ともいって来なかった。無筆《むひつ》な彼女は最初の手紙さえ他に頼んで書いてもらったのである。
この出来事が健三に対する姉を前よりは一層遠慮がちにした。何でも蚊でも訊《き》きたがる彼女も、健三の家庭については、当り障りのない事の外、多く口を開かなかった。健三も自分ら夫婦の間柄を彼女の前で問題にしようなどとはかつて想い到《いた》らなかった。
「近頃御住さんはどうだい」
「まあ相変らずです」
会話はこの位で切り上げられる場合が多かった。
間接に細君の病気を知っている姉の質問には、好奇心以外に、親切から来る懸念も大分《だいぶ》交《まじ》っていた。しかしその懸念は健三に取って何の役にも立たなかった。従って彼女の眼に見える健三は、何時も親しみがたい無愛想《ぶあいそ》な変人に過ぎなかった。
淋《さみ》しい心持で、姉の家を出た健三は、足に任せて北へ北へ
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