「ああ、でも御蔭さまでね。――姉さんなんざあ、生きていたってどうせ他《ひと》の厄介になるばかりで何の役にも立たないんだから、好い加減な時分に死ぬと丁度好いんだけれども、やっぱり持って生れた寿命だと見えてこればかりは仕方がない」
姉は自分のいう裏を健三から聴きたい様子であった。しかし彼は黙って烟草《タバコ》を吹かしていた。こんな些細《ささい》の点にも姉弟《きょうだい》の気風の相違は現われた。
「でも比田のいるうちは、いくら病身でも無能《やくざ》でも私《あたし》が生きていて遣《や》らないと困るからね」
親類は亭主孝行という名で姉を評し合っていた。それは女房の心尽しなどに対して余りに無頓着《むとんじゃく》過ぎる比田を一方に置いてこの姉の態度を見ると、むしろ気の毒な位親切だったからである。
「私《あたし》ゃ本当に損な生れ付でね。良人《うち》とはまるであべこべ[#「あべこべ」に傍点]なんだから」
姉の夫思いは全く天性に違なかった。けれども比田が時として理の徹《とお》らない我儘《わがまま》をいい募るように、彼女は訳の解らない実意立《じついだて》をしてかえって夫を厭《いや》がらせる事があった。それに彼女は縫針《ぬいはり》の道を心得ていなかった。手習《てならい》をさせても遊芸を仕込んでも何一つ覚える事の出来なかった彼女は、嫁に来てから今日《こんにち》まで、ついぞ夫の着物一枚縫った例《ためし》がなかった。それでいて彼女は人一倍勝気な女であった。子供の時分強情を張った罰として土蔵の中に押し込められた時、小用《こよう》に行きたいから是非出してくれ、もし出さなければ倉の中で用を足すが好いかといって、網戸の内外《うちそと》で母と論判をした話はいまだに健三の耳に残っていた。
そう思うと自分とは大変懸け隔ったようでいて、その実どこか似通った所のあるこの腹違《はらちがい》の姉の前に、彼は反省を強《し》いられた。
「姉はただ露骨なだけなんだ。教育の皮を剥《む》けば己《おれ》だって大した変りはないんだ」
平生《へいぜい》の彼は教育の力を信じ過ぎていた。今の彼はその教育の力でどうする事も出来ない野生的な自分の存在を明らかに認めた。かく事実の上において突然人間を平等に視《み》た彼は、不断から軽蔑《けいべつ》していた姉に対して多少|極《きま》りの悪い思をしなければならなかった。しかし姉は何にも気が
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