付かなかった。
「御住《おすみ》さんはどうです。もう直《じき》生れるんだろう」
「ええ落《おっ》こちそうな腹をして苦しがっています」
「御産は苦しいもんだからね。私《あたし》も覚があるが」
 久しく不妊性と思われていた姉は、片付いて何年目かになって始めて一人の男の子を生んだ。年歯《とし》を取ってからの初産《ういざん》だったので、当人も傍《はた》のものも大分《だいぶ》心配した割に、それほどの危険もなく胎児を分娩《ぶんべん》したが、その子はすぐ死んでしまった。
「軽はずみをしないように用心おしよ。――宅でも彼子《あれ》がいると少しは依怙《たより》になるんだがね」

     六十八

 姉の言葉には昔し亡くしたわが子に対する思い出の外に、今の養子に飽き足らない意味も含まれていた。
「彦ちゃんがもう少し確乎《しっかり》していてくれると好《い》いんだけれども」
 彼女は時々傍《はた》のものにこんな述懐を洩《も》らした。彦ちゃんは彼女の予期するような大した働き手でないにせよ、至極《しごく》穏やかな好人物であった。朝っぱらから酒を飲まなくっちゃいられない人だという噂《うわさ》を耳にした事はあるが、その他《た》の点について深い交渉を有《も》たない健三には、どこが不足なのか能《よ》く解らなかった。
「もう少し御金を取ってくれると好いんだけどもね」
 無論彦ちゃんは養父母を楽に養えるだけの収入を得ていなかった。しかし比田も姉も彼を育てた時の事を思えば、今更そんな贅沢《ぜいたく》のいえた義理でもなかった。彼らは彦ちゃんをどこの学校へも入れて遣《や》らなかった。僅《わずか》ばかりでも彼が月給を取るようになったのは、養父母に取ってむしろ僥倖《ぎょうこう》といわなければならなかった。健三は姉の不平に対して眼に見えるほどの注意を払いかねた。昔し死んだ赤ん坊については、なおの事同情が起らなかった。彼はその生顔《いきがお》を見た事がなかった。その死顔《しにがお》も知らなかった。名前さえ忘れてしまった。
「何とかいいましたね、あの子は」
「作太郎《さくたろう》さ。あすこに位牌《いはい》があるよ」
 姉は健三のために茶の間の壁を切り抜いて拵《こしら》えた小さい仏壇を指し示した。薄暗いばかりでなく小汚《こぎた》ないその中には先祖からの位牌が五つ六つ並んでいた。
「あの小さい奴がそうですか」
「ああ、赤ん
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