とう遣る気になったんですって、どうせ高い御祈祷代を払ったんじゃないんでしょう」
健三は腹の中で兄を馬鹿だと思った。また熱の除れるまで薬を飲む事の出来ない彼の内状を気の毒に思った。髪剃の御蔭でも何でも熱が除れさえすればまず仕合せだとも思った。
兄が癒ると共に姉がまた喘息《ぜんそく》で悩み出した。
「またかい」
健三は我知らずこういって、ふと女房の持病を苦にしない比田の様子を想い浮べた。
「しかし今度《こんだ》は何時もより重いんですって。ことによると六《む》ずかしいかも知れないから、健三に見舞に行くようにそういってくれって仰《おっし》ゃいました」
兄の注意を健三に伝えた細君は、重苦しそうに自分の尻《しり》を畳の上に着けた。
「少し立っていると御腹《おなか》の具合が変になって来て仕方がないんです。手なんぞ延ばして棚に載っているものなんかとても取れやしません」
産が逼《せま》るほど妊婦は運動すべきものだ位に考えていた健三は意外な顔をした。下腹部だの腰の周囲の感じがどんなに退儀であるかは全く彼の想像の外《ほか》にあった。彼は活動を強《し》いる勇気も自信も失なった。
「私とても御見舞には参れませんよ」
「無論御前は行かなくっても好い。己が行くから」
六十七
その頃の健三は宅《うち》へ帰ると甚しい倦怠《けんたい》を感じた。ただ仕事をした結果とばかりは考えられないこの疲労が、一層彼を出不精にした。彼はよく昼寐《ひるね》をした。机に倚《よ》って書物を眼の前に開けている時ですら、睡魔に襲われる事がしばしばあった。愕然《がくぜん》として仮寐《うたたね》の夢から覚めた時、失われた時間を取り返さなければならないという感じが一層強く彼を刺撃《しげき》した。彼は遂に机の前を離れる事が出来なくなった。括《くく》り付けられた人のように書斎に凝《じっ》としていた。彼の良心はいくら勉強が出来なくっても、いくら愚図々々していても、そういう風に凝と坐《すわ》っていろと彼に命令するのである。
かくして四、五日は徒《いたず》らに過ぎた。健三が漸《ようや》く津《つ》の守坂《かみざか》へ出掛けた時は六《む》ずかしいかも知れないといった姉が、もう回復期に向っていた。
「まあ結構です」
彼は尋常の挨拶《あいさつ》をした。けれども腹の中では狐《きつね》にでも抓《つま》まれたような気がした。
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