ま》でも持ってって下さいっていったらね、じゃ釜を持ってくっていうんだよ。あきれるじゃないか」
「釜を持って行くったって、重くってとても持てやしないでしょう」
「ところがあの業突張《ごうつくばり》の事だから、どんな事をして持ってかないとも限らないのさ。そらその日の御飯をあたしに炊《た》かせまいと思って、そういう意地の悪い事をする人なんだからね。どうせ先へ寄って好《い》い事あないはずだあね」
 健三の耳にはこの話がただの滑稽《こっけい》としては聞こえなかった。その人と姉との間に起ったこんな交渉のなかに引絡《ひっから》まっている古い自分の影法師は、彼に取って可笑《おか》しいというよりもむしろ悲しいものであった。
「私《わたし》ゃ島田に二度会ったんですよ、姉さん。これから先また何時会うか分らないんだ」
「いいから知らん顔をして御出でよ。何度会ったって構わないじゃないか」
「しかしわざわざ彼所《あすこ》いらを通って、私の宅《うち》でも探しているんだか、また用があって通りがかりに偶然出ッくわしたんだか、それが分らないんでね」
 この疑問は姉にも解けなかった。彼女はただ健三に都合の好さそうな言葉を無意味に使った。それが健三には空御世辞《からおせじ》のごとく響いた。
「こちらへはその後まるで来ないんですか」
「ああこの二、三年はまるっきり来ないよ」
「その前は?」
「その前はね、ちょくちょくってほどでもないが、それでも時々は来たのさ。それがまた可笑しいんだよ。来ると何時でも十一時頃でね。鰻飯《うなぎめし》かなにか食べさせないと決して帰らないんだからね。三度の御まんまを一《ひと》かたけでも好《い》いから他《ひと》の家《うち》で食べようっていうのがつまりあの人の腹なんだよ。そのくせ服装《なり》なんかかなりなものを着ているんだがね。……」
 姉のいう事は脱線しがちであったけれども、それを聴いている健三には、やはり金銭上の問題で、自分が東京を去ったあとも、なお多少の交際が二人の間に持続されていたのだという見当はついた。しかしそれ以上何も知る事は出来なかった。目下の島田については全く分らなかった。

     八

「島田は今でも元の所に住んでいるんだろうか」
 こんな簡単な質問さえ姉には判然《はっきり》答えられなかった。健三は少し的《あて》が外れた。けれども自分の方から進んで島田の現在の居
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