に限らず二人の間にはこういう光景が能く繰り返された。その代り前後の関係で反対の場合も時には起った。――
「御縫さんが脊髄病《せきずいびょう》なんだそうだ」
「脊髄病じゃ六《む》ずかしいでしょう」
「とても助かる見込はないんだとさ。それで島田が心配しているんだ。あの人が死ぬと柴野《しばの》と御藤《おふじ》さんとの縁が切れてしまうから、今まで毎月送ってくれた例の金が来なくなるかも知れないってね」
「可哀想《かわいそう》ね今から脊髄病なんぞに罹《かか》っちゃ。まだ若いんでしょう」
「己《おれ》より一つ上だって話したじゃないか」
「子供はあるの」
「何でも沢山あるような様子だ。幾人《いくたり》だか能く訊《き》いて見ないが」
細君は成人しない多くの子供を後へ遺して死にに行く、まだ四十に充《み》たない夫人の心持を想像に描いた。間近に逼《せま》ったわが産の結果も新たに気遣われ始めた。重そうな腹を眼の前に見ながら、それほど心配もしてくれない男の気分が、情《なさけ》なくもありまた羨《うらや》ましくもあった。夫はまるで気が付かなかった。
「島田がそんな心配をするのも必竟《ひっきょう》は平生《へいぜい》が悪いからなんだろうよ。何でも嫌われているらしいんだ。島田にいわせると、その柴野という男が酒食《さけくら》いで喧嘩早《けんかっぱや》くって、それで何時まで経っても出世が出来なくって、仕方がないんだそうだけれども、どうもそればかりじゃないらしい。やっぱり島田の方が愛想《あいそ》を尽かされているに違ないんだ」
「愛想を尽かされなくったって、そんなに子供が沢山あっちゃどうする事も出来ないでしょう」
「そうさ。軍人だから大方己と同じように貧乏しているんだろうよ」
「一体あの人はどうしてその御藤さんて人と――」
細君は少し躊躇《ちゅうちょ》した。健三には意味が解らなかった。細君はいい直した。
「どうしてその御藤さんて人と懇意になったんでしょう」
御藤さんがまだ若い未亡人《びぼうじん》であった頃、何かの用で扱所《あつかいじょ》へ出なければならない事の起った時、島田はそういう場所へ出つけない女一人を、気の毒に思って、色々親切に世話をして遣《や》ったのが、二人の間に関係の付く始まりだと、健三は小さい時分に誰かから聴いて知っていた。しかし恋愛という意味をどう島田に応用して好いか、今の彼には解らなかった
前へ
次へ
全172ページ中102ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング