。
「まあ好いやね。面倒臭《めんどくさ》くなったら、その内都合の好い時に上げましょうとか何とかいって帰してしまえば。それでも蒼蠅《うるさ》いなら留守を御遣いよ。構う事はないから」
この注意は如何《いか》にも姉らしく健三の耳に響いた。
姉から要領を得られなかった彼はまた比田を捉《つら》まえて同じ質問を掛けて見た。比田はただ、大丈夫というだけであった。
「何しろ故《もと》の通りあの地面と家作《かさく》を有ってるんだから、そう困っていない事は慥《たしか》でさあ。それに御藤さんの方へは御縫《おぬい》さんの方からちゃんちゃんと送金はあるしさ。何でも好い加減な事をいって来るに違ないから放って御置きなさい」
比田のいう事もやっぱり好い加減の範囲を脱し得ない上《うわ》っ調子《ちょうし》のものには相違なかった。
六十一
しまいに健三は細君に向った。
「一体どういうんだろう、今の島田の実際の境遇っていうのは。姉に訊《き》いても比田に訊いても、本当の所が能《よ》く分らないが」
細君は気のなさそうに夫の顔を見上げた。彼女は産に間もない大きな腹を苦しそうに抱えて、朱塗《しゅぬり》の船底枕《ふなぞこまくら》の上に乱れた頭を載せていた。
「そんなに気になさるなら、御自分で直《じか》に調べて御覧になるが好《い》いじゃありませんか。そうすればすぐ分るでしょう。御姉《おあね》えさんだって、今あの人と交際《つきあ》っていらっしゃらないんだから、そんな確《たしか》な事の知れているはずがないと思いますわ」
「己《おれ》にはそんな暇なんかないよ」
「それじゃ放って御置きになればそれまででしょう」
細君の返事には、男らしくもないという意味で、健三を非難する調子があった。腹で思っている事でもそうむやみに口へ出していわない性質《たち》に出来上った彼女は、自分の生家《さと》と夫との面白くない間柄についてさえ、余り言葉に現わしてつべこべ弁じ立てなかった。自分と関係のない島田の事などはまるで知らないふりをして澄ましている日も少なくなかった。彼女の持った心の鏡に映る神経質な夫の影は、いつも度胸のない偏窟《へんくつ》な男であった。
「放って置け?」
健三は反問した。細君は答えなかった。
「今までだって放って置いてるじゃないか」
細君はなお答えなかった。健三はぷいと立って書斎へ入った。
島田の事
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