昔し自分を呼び捨《ず》てにした人から今となって鄭寧《ていねい》な挨拶《あいさつ》を受けるのは、彼に取って何の満足にもならなかった。小遣《こづかい》の財源のように見込まれるのは、自分を貧乏人と見傚《みな》している彼の立場から見て、腹が立つだけであった。
彼は念のために姉の意見を訊《たず》ねて見た。
「一体どの位困ってるんでしょうね、あの男は」
「そうさね。そう度々無心をいって来るようじゃ、随分苦しいのかも知れないね。だけど健ちゃんだってそうそう他《ひと》にばかり貢《みつ》いでいた日にゃ際限がないからね。いくら御金が取れたって」
「御金がそんなに取れるように見えますか」
「だって宅《うち》なんぞに比べれば、御前さん、御金がいくらでも取れる方じゃないか」
姉は自分の宅の活計《くらし》を標準にしていた。相変らず口数の多い彼女は、比田《ひだ》が月々貰《もら》うものを満足に持って帰った例《ためし》のない事や、俸給の少ない割に交際費の要《い》る事や、宿直が多いので弁当代だけでも随分の額《たか》に上《のぼ》る事や、毎月の不足はやっと盆暮の賞与で間に合わせている事などを詳しく健三に話して聞かせた。
「その賞与だって、そっくり私《あたし》の手に渡してくれるんじゃないんだからね。だけど近頃じゃ私たち二人はまあ隠居見たようなもので、月々食料を彦《ひこ》さんの方へ遣《や》って賄《まか》なってもらってるんだから、少しは楽にならなけりゃならない訳さ」
養子と経済を別々にしながら一所の家《うち》に住んでいた姉夫婦は、自分たちの搗《つ》いた餅《もち》だの、自分たちの買った砂糖だのという特別な食物《くいもの》を有《も》っていた。自分たちの所へ来た客に出す御馳走《ごちそう》などもきっと自分たちの懐中から払う事にしているらしかった。健三は殆《ほと》んど考えの及ばないような眼付をして、極端に近い一種の個人主義の下に存在しているこの一家の経済状態を眺めた。しかし主義も理窟も有たない姉にはまたこれほど自然な現象はなかったのである。
「健ちゃんなんざ、こんな真似《まね》をしなくっても済むんだから好いやあね。それに腕があるんだから、稼ぎさいすりゃいくらでも欲しいだけの御金は取れるしさ」
彼女のいう事を黙って聞いていると、島田などはどこへ行ったか分らなくなってしまいがちであった。それでも彼女は最後に付け加えた
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