心の裡《うち》で読み上げた。
「己《おれ》が悪いのじゃない。己の悪くない事は、仮令《たとい》あの男に解っていなくっても、己には能《よ》く解っている」
無信心な彼はどうしても、「神には能く解っている」という事が出来なかった。もしそういい得たならばどんなに仕合せだろうという気さえ起らなかった。彼の道徳は何時でも自己に始まった。そうして自己に終るぎりであった。
彼は時々金の事を考えた。何故《なぜ》物質的の富を目標《めやす》として今日《こんにち》まで働いて来なかったのだろうと疑う日もあった。
「己だって、専門にその方ばかり遣《や》りゃ」
彼の心にはこんな己惚《おのぼれ》もあった。
彼はけち臭い自分の生活状態を馬鹿らしく感じた。自分より貧乏な親類の、自分より切り詰めた暮し向に悩んでいるのを気の毒に思った。極めて低級な慾望で、朝から晩まで齷齪《あくせく》しているような島田をさえ憐れに眺めた。
「みんな金が欲しいのだ。そうして金より外には何にも欲しくないのだ」
こう考えて見ると、自分が今まで何をして来たのか解らなくなった。
彼は元来|儲《もう》ける事の下手《へた》な男であった。儲けられてもその方に使う時間を惜がる男であった。卒業したてに、悉《ことごと》く他《ほか》の口を断って、ただ一つの学校から四十円|貰《もら》って、それで満足していた。彼はその四十円の半分を阿爺《おやじ》に取られた。残る二十円で、古い寺の座敷を借りて、芋や油揚《あぶらげ》ばかり食っていた。しかし彼はその間に遂に何事も仕出かさなかった。
その時分の彼と今の彼とは色々な点において大分《だいぶ》変っていた。けれども経済に余裕《ゆとり》のないのと、遂に何事も仕出かさないのとは、どこまで行っても変りがなさそうに見えた。
彼は金持になるか、偉くなるか、二つのうちどっちかに中途半端な自分を片付けたくなった。しかし今から金持になるのは迂闊《うかつ》な彼に取ってもう遅かった。偉くなろうとすればまた色々な塵労《わずらい》が邪魔をした。その塵労の種をよくよく調べて見ると、やっぱり金のないのが大源因になっていた。どうして好《い》いか解らない彼はしきりに焦《じ》れた。金の力で支配出来ない真に偉大なものが彼の眼に這入《はい》って来るにはまだ大分|間《ま》があった。
五十八
健三は外国から帰って来た時、既に金
前へ
次へ
全172ページ中95ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング