夫の眼から見たら、妾《わたくし》なんぞは馬鹿でしょうよ」
 健三は彼女の誤解を正してやるのさえ面倒になった。
 二人の間に感情の行違《ゆきちがい》でもある時は、これだけの会話すら交換されなかった。彼は島田の後影《うしろかげ》を見送ったまま黙ってすぐ書斎へ入った。そこで書物も読まず筆も執らずただ凝《じっ》と坐《すわ》っていた。細君の方でも、家庭と切り離されたようなこの孤独な人に何時《いつ》までも構う気色《けしき》を見せなかった。夫が自分の勝手で座敷牢《ざしきろう》へ入っているのだから仕方がない位に考えて、まるで取り合ずにいた。

     五十七

 健三の心は紙屑《かみくず》を丸めたようにくしゃくしゃした。時によると肝癪《かんしゃく》の電流を何かの機会に応じて外《ほか》へ洩《も》らさなければ苦しくって居堪《いたた》まれなくなった。彼は子供が母に強請《せび》って買ってもらった草花の鉢などを、無意味に縁側から下へ蹴飛《けと》ばして見たりした。赤ちゃけた素焼《すやき》の鉢が彼の思い通りにがらがらと破《われ》るのさえ彼には多少の満足になった。けれども残酷《むご》たらしく摧《くだ》かれたその花と茎の憐《あわ》れな姿を見るや否や、彼はすぐまた一種の果敢《はか》ない気分に打ち勝たれた。何にも知らない我子の、嬉《うれ》しがっている美しい慰みを、無慈悲に破壊したのは、彼らの父であるという自覚は、なおさら彼を悲しくした。彼は半ば自分の行為を悔いた。しかしその子供の前にわが非を自白する事は敢《あえ》てし得なかった。
「己《おれ》の責任じゃない。必竟《ひっきょう》こんな気違じみた真似《まね》を己にさせるものは誰だ。そいつが悪いんだ」
 彼の腹の底には何時でもこういう弁解が潜んでいた。
 平静な会話は波だった彼の気分を沈めるに必要であった。しかし人を避ける彼に、その会話の届きようはずはなかった。彼は一人いて一人自分の熱で燻《くす》ぶるような心持がした。常でさえ有難くない保険会社の勧誘員などの名刺を見ると、大きな声をして罪もない取次の下女《げじょ》を叱《しか》った。その声は玄関に立っている勧誘員の耳にまで明らかに響いた。彼はあとで自分の態度を恥《はじ》た。少なくとも好意を以て一般の人類に接する事の出来ない己《おの》れを怒《いか》った。同時に子供の植木鉢を蹴飛ばした場合と同じような言訳を、堂々と
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