いえなかった。訊《き》きたい問題を持っていながら、こう受身な会話ばかりしているのが、彼には段々むず痒《がゆ》くなって来た。しかし姉にはそれが一向通じないらしかった。
 他《ひと》に物を食わせる事の好きなのと同時に、物を遣《や》る事の好きな彼女は、健三がこの前|賞《ほ》めた古ぼけた達磨《だるま》の掛物を彼に遣ろうかといい出した。
「あんなものあ、宅《うち》にあったって仕方がないんだから、持って御出でよ。なに比田《ひだ》だって要《い》りゃしないやね、汚ない達磨なんか」
 健三は貰《もら》うとも貰わないともいわずにただ苦笑していた。すると姉は何か秘密話でもするように急に調子を低くした。
「実は健ちゃん、御前さんが帰って来たら、話そう話そうと思って、つい今日《きょう》まで黙ってたんだがね。健ちゃんも帰りたてでさぞ忙がしかろうし、それに姉さんが出掛けて行くにしたところで、御住《おすみ》さんがいちゃ、少し話し悪《にく》い事だしね。そうかって、手紙を書こうにも御存じの無筆だろう……」
 姉の前置《まえおき》は長たらしくもあり、また滑稽《こっけい》でもあった。小さい時分いくら手習をさせても記憶《おぼえ》が悪くって、どんなに平易《やさ》しい字も、とうとう頭へ這入《はい》らずじまいに、五十の今日《こんにち》まで生きて来た女だと思うと、健三にはわが姉ながら気の毒でもありまたうら恥ずかしくもあった。
「それで姉さんの話ってえな、一体どんな話なんです。実は私《わたし》も今日は少し姉さんに話があって来たんだが」
「そうかいそれじゃ御前さんの方のから先へ聴くのが順だったね。何故《なぜ》早く話さなかったの」
「だって話せないんだもの」
「そんなに遠慮しないでもいいやね。姉弟《きょうだい》の間じゃないか、御前さん」
 姉は自分の多弁が相手の口を塞《ふさ》いでいるのだという明白な事実には毫《ごう》も気が付いていなかった。
「まあ姉さんの方から先へ片付けましょう。何ですか、あなたの話っていうのは」
「実は健ちゃんにはまことに気の毒で、いい悪いんだけれども、あたしも段々年を取って身体は弱くなるし、それに良人《うち》があの通りの男で、自分一人さえ好けりゃ女房なんかどうなったって、己《おれ》の知った事じゃないって顔をしているんだから。――尤《もっと》も月々の取高《とりだか》が少ない上に、交際《つきあい》もある
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