は》め込んだ硝子《ガラス》に中《あた》ってその一部分を摧《くだ》いて向う側の縁《えん》に落ちた。細君は茫然《ぼうぜん》として夢でも見ている人のように一口も物をいわなかった。
彼女は本当に情に逼《せま》って刃物三昧《はものざんまい》をする気なのだろうか、または病気の発作に自己の意志を捧げべく余儀なくされた結果、無我夢中で切れものを弄《もてあ》そぶのだろうか、あるいは単に夫に打ち勝とうとする女の策略からこうして人を驚かすのだろうか、驚ろかすにしてもその真意は果してどこにあるのだろうか。自分に対する夫を平和で親切な人に立ち返らせるつもりなのだろうか、またはただ浅墓な征服慾に駆られているのだろうか、――健三は床の中で一つの出来事を五条《いつすじ》にも六条《むすじ》にも解釈した。そうして時々眠れない眼をそっと細君の方に向けてその動静をうかがった。寐ているとも起きているとも付かない細君は、まるで動かなかった。あたかも死を衒《てら》う人のようであった。健三はまた枕の上でまた自分の問題の解決に立ち帰った。
その解決は彼の実生活を支配する上において、学校の講義よりも遥かに大切であった。彼の細君に対する基調は、全《まったく》その解決一つでちゃんと定められなければならなかった。今よりずっと単純であった昔、彼は一図に細君の不可思議な挙動を、病のためとのみ信じ切っていた。その時代には発作の起るたびに、神の前に己《おの》れを懺悔《ざんげ》する人の誠を以て、彼は細君の膝下《しっか》に跪《ひざま》ずいた。彼はそれを夫として最も親切でまた最も高尚な処置と信じていた。
「今だってその源因が判然《はっきり》分りさえすれば」
彼にはこういう慈愛の心が充ち満ちていた。けれども不幸にしてその源因は昔のように単純には見えなかった。彼はいくらでも考えなければならなかった。到底解決の付かない問題に疲れて、とろとろと眠るとまたすぐ起きて講義をしに出掛けなければならなかった。彼は昨夕《ゆうべ》の事について、ついに一言《ひとこと》も細君に口を利く機会を得なかった。細君も日の出と共にそれを忘れてしまったような顔をしていた。
五十五
こういう不愉快な場面の後《あと》には大抵仲裁者としての自然が二人の間に這入《はい》って来た。二人は何時となく普通夫婦の利くような口を利き出した。
けれども或時の自然は全く
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