不快そうに寐《ね》ている彼女の体《てい》たらくが癪《しゃく》に障って堪らなくなった。枕元に突っ立ったまま、わざと樫貪《けんどん》に要《い》らざる用を命じて見たりした。
 細君も動かなかった。大きな腹を畳へ着けたなり打つとも蹴《け》るとも勝手にしろという態度をとった。平生《へいぜい》からあまり口数を利かない彼女は益《ますます》沈黙を守って、それが夫の気を焦立《いらだ》たせるのを目の前に見ながら澄ましていた。
「つまりしぶといのだ」
 健三の胸にはこんな言葉が細君の凡《すべ》ての特色ででもあるかのように深く刻み付けられた。彼は外《ほか》の事をまるで忘れてしまわなければならなかった。しぶとい[#「しぶとい」に傍点]という観念だけがあらゆる注意の焦点になって来た。彼はよそを真闇《まっくら》にして置いて、出来るだけ強烈な憎悪の光をこの四字の上に投げ懸けた。細君はまた魚か蛇のように黙ってその憎悪を受取った。従って人目には、細君が何時でも品格のある女として映る代りに、夫はどうしても気違染《きちがいじ》みた癇癪持《かんしゃくもち》として評価されなければならなかった。
「貴夫《あなた》がそう邪慳《じゃけん》になさると、また歇私的里《ヒステリー》を起しますよ」
 細君の眼からは時々こんな光が出た。どういうものか健三は非道《ひど》くその光を怖れた。同時に劇《はげ》しくそれを悪《にく》んだ。我慢な彼は内心に無事を祈りながら、外部《うわべ》では強《し》いて勝手にしろという風を装った。その強硬な態度のどこかに何時でも仮装に近い弱点があるのを細君は能《よ》く承知していた。
「どうせ御産で死んでしまうんだから構やしない」
 彼女は健三に聞えよがしに呟《つぶ》やいた。健三は死んじまえといいたくなった。
 或晩彼はふと眼を覚まして、大きな眼を開いて天井を見詰ている細君を見た。彼女の手には彼が西洋から持って帰った髪剃《かみそり》があった。彼女が黒檀《エボニー》の鞘《さや》に折り込まれたその刃を真直《まっすぐ》に立てずに、ただ黒い柄《え》だけを握っていたので、寒い光は彼の視覚を襲わずに済んだ。それでも彼はぎょっとした。半身を床の上に起して、いきなり細君の手から髪剃を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《も》ぎ取った。
「馬鹿な真似をするな」
 こういうと同時に、彼は髪剃を投げた。髪剃は障子に篏《
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