皺《しわ》だらけの紙幣を、指の間に挟んで、ちょっと胸のあたりまで上げて見せた。彼女の挙動は自分の勝利に誇るものの如く微《かす》かな笑に伴なった。
「何時入れたのか」
「あの人の帰った後でです」
 健三は細君の心遣を嬉《うれ》しく思うよりもむしろ珍らしく眺めた。彼の理解している細君はこんな気の利いた事を滅多にする女ではなかったのである。
「己《おれ》が内所《ないしょ》で島田に金を奪《と》られたのを気の毒とでも思ったものかしら」
 彼はこう考えた。しかし口へ出してその理由《わけ》を彼女に訊《き》き糺《ただ》して見る事はしなかった。夫と同じ態度をついに失わずにいた彼女も、自ら進んで己《おの》れを説明する面倒を敢《あえ》てしなかった。彼女の填補《てんぽ》した金はかくして黙って受取られ、また黙って消費されてしまった。
 その内細君の御腹《おなか》が段々大きくなって来た。起居《たちい》に重苦しそうな呼息《いき》をし始めた。気分も能《よ》く変化した。
「妾《わたくし》今度《こんだ》はことによると助からないかも知れませんよ」
 彼女は時々何に感じてかこういって涙を流した。大抵は取り合わずにいる健三も、時として相手にさせられなければ済まなかった。
「何故《なぜ》だい」
「何故だかそう思われて仕方がないんですもの」
 質問も説明もこれ以上には上《のぼ》る事の出来なかった言葉のうちに、ぼんやりした或ものが常に潜んでいた。その或ものは単純な言葉を伝わって、言葉の届かない遠い所へ消えて行った。鈴《りん》の音《ね》が鼓膜の及ばない幽《かす》かな世界に潜り込むように。
 彼女は悪阻《つわり》で死んだ健三の兄の細君の事を思い出した。そうして自分が長女を生む時に同じ病で苦しんだ昔と照し合せて見たりした。もう二、三日食物が通らなければ滋養|灌腸《かんちょう》をするはずだった際どいところを、よく通り抜けたものだなどと考えると、生きている方がかえって偶然のような気がした。
「女は詰らないものね」
「それが女の義務なんだから仕方がない」
 健三の返事は世間並であった。けれども彼自身の頭で批判すると、全くの出鱈目《でたらめ》に過ぎなかった。彼は腹の中で苦笑した。

     五十四

 健三の気分にも上《あが》り下《さが》りがあった。出任せにもせよ細君の心を休めるような事ばかりはいっていなかった。時によると、
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