健三は立って書斎の机の上から自分の紙入を持って来た。一家の会計を司《つかさ》どっていない彼の財嚢《ざいのう》は無論軽かった。空のまま硯箱《すずりばこ》の傍《そば》に幾日《いくか》も横たわっている事さえ珍らしくはなかった。彼はその中から手に触れるだけの紙幣を攫《つか》み出して島田の前に置いた。島田は変な顔をした。
「どうせ貴方《あなた》の請求通り上げる訳には行かないんです。それでもありったけ悉皆《みんな》上げたんですよ」
健三は紙入の中を開けて島田に見せた。そうして彼の帰ったあとで、空の財布を客間へ放り出したまままた書斎へ入った。細君には金を遣《や》った事を一口もいわなかった。
五十三
翌日《あくるひ》例刻に帰った健三は、机の前に坐《すわ》って、大事らしく何時もの所に置かれた昨日《きのう》の紙入に眼を付けた。革で拵《こし》らえた大型のこの二つ折は彼の持物としてむしろ立派過ぎる位上等な品であった。彼はそれを倫敦《ロンドン》の最も賑《にぎ》やかな町で買ったのである。
外国から持って帰った記念が、何の興味も惹《ひ》かなくなりつつある今の彼には、この紙入も無用の長物と見える外はなかった。細君が何故《なぜ》丁寧にそれを元の場所へ置いてくれたのだろうかとさえ疑った彼は、皮肉な一瞥《いちべつ》を空っぽうの入物に与えたぎり、手も触れずに幾日かを過ごした。
その内何かで金の要《い》る日が来た。健三は机の上の紙入を取り上げて細君の鼻の先へ出した。
「おい少し金を入れてくれ」
細君は右の手で物指《ものさし》を持ったまま夫の顔を下から見上げた。
「這入《はい》ってるはずですよ」
彼女はこの間島田の帰ったあとで何事も夫から聴こうとしなかった。それで老人に金を奪《と》られたことも全く夫婦間の話題に上《のぼ》っていなかった。健三は細君が事状を知らないでこういうのかと思った。
「あれはもう遣《や》っちゃったんだ。紙入は疾《と》うから空っぽうになっているんだよ」
細君は依然として自分の誤解に気が付かないらしかった。物指を畳の上へ投げ出して手を夫の方へ差し延べた。
「ちょっと拝見」
健三は馬鹿々々しいという風をして、それを細君に渡した。細君は中を検《あら》ためた。中からは四、五枚の紙幣《さつ》が出た。
「そらやっぱり入ってるじゃありませんか」
彼女は手垢《てあか》の付いた
前へ
次へ
全172ページ中87ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング