自尊心を傷《きずつ》けるのも、それらを超越する事の出来ない彼には大きな苦痛であった。
「明日《あした》の講義もまた纏《まと》まらないのかしら」
こう思うと彼は自分の努力が急に厭《いや》になった。愉快に考えの筋道が運んだ時、折々何者にか煽動《せんどう》されて起る、「己《おれ》の頭は悪くない」という自信も己惚《うぬぼれ》も忽《たちま》ち消えてしまった。同時にこの頭の働らきを攪《か》き乱す自分の周囲についての不平も常時《ふだん》よりは高まって来た。
彼はしまいに投げるように洋筆《ペン》を放り出した。
「もうやめだ。どうでも構わない」
時計はもう一時過ぎていた。洋燈《ランプ》を消して暗闇《くらやみ》を縁側伝いに廊下へ出ると、突当《つきあた》りの奥の間の障子二枚だけが灯《ひ》に映って明るかった。健三はその一枚を開けて内に入った。
子供は犬ころのように塊《かた》まって寐《ね》ていた。細君も静かに眼を閉じて仰向《あおむけ》に眠っていた。
音のしないように気を付けてその傍《そば》に坐《すわ》った彼は、心持|頸《くび》を延ばして、細君の顔を上から覗《のぞ》き込んだ。それからそっと手を彼女の寐顔《ねがお》の上に翳《かざ》した。彼女は口を閉じていた。彼の掌《てのひら》には細君の鼻の穴から出る生暖かい呼息《いき》が微かに感ぜられた。その呼息は規則正しかった。また穏やかだった。
彼は漸《ようや》く出した手を引いた。するともう一度細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ないという気が彼の胸を衝《つ》いて起った。けれども彼は直《すぐ》その衝動に打勝った。次に彼はまた細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺《ゆす》り起そうとしたが、それもやめた。
「大丈夫だろう」
彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た。しかし細君の病気に対して神経の鋭敏になっている彼には、それが何人《なんびと》もこういう場合に取らなければならない尋常の手続きのように思われたのである。
細君の病気には熟睡が一番の薬であった。長時間彼女の傍に坐って、心配そうにその顔を見詰めている健三に何よりも有難いその眠りが、静かに彼女の瞼《まぶた》の上に落ちた時、彼は天から降る甘露をまのあたり見るような気が常にした。しかしその眠りがまた余り長く続き過ぎると、今度は自分の視線から隠された彼女の眼がかえって不安の種になった。ついに睫毛《
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