子に御父《おとっ》ッさんが何といったい。あの子の方に余計口を利くかい、御前の方にかい」
何の答もしなかった健三の心には、ただ不愉快の念のみ募った。しかし御常は其所《そこ》で留まる女ではなかった。
「汁粉屋で御前をどっちへ坐らせたい。右の方かい、左の方かい」
嫉妬《しっと》から出る質問は何時まで経っても尽きなかった。その質問のうちに自分の人格を会釈なく露《あら》わして顧り見ない彼女は、十《とお》にも足りないわが養い子から、愛想《あいそ》を尽かされて毫《ごう》も気が付かずにいた。
四十四
間もなく島田は健三の眼から突然消えて失くなった。河岸《かし》を向いた裏通りと賑《にぎや》かな表通りとの間に挟まっていた今までの住居《すまい》も急にどこへか行ってしまった。御常とたった二人ぎりになった健三は、見馴《みな》れない変な宅《うち》の中に自分を見出だした。
その家の表には門口《かどぐち》に縄暖簾《なわのれん》を下げた米屋だか味噌屋《みそや》だかがあった。彼の記憶はこの大きな店と、茹《う》でた大豆とを彼に連想せしめた。彼は毎日それを食った事をいまだに忘れずにいた。しかし自分の新らしく移った住居については何の影像《イメジ》も浮かべ得なかった。「時」は綺麗《きれい》にこの佗《わ》びしい記念《かたみ》を彼のために払い去ってくれた。
御常は会う人ごとに島田の話をした。口惜《くや》しい口惜しいといって泣いた。
「死んで崇《たた》ってやる」
彼女の権幕は健三の心をますます彼女から遠ざける媒介《なかだち》となるに過ぎなかった。
夫と離れた彼女は健三を自分一人の専有物にしようとした。また専有物だと信じていた。
「これからは御前一人が依怙《たより》だよ。好《い》いかい。確《しっ》かりしてくれなくっちゃいけないよ」
こう頼まれるたびに健三はいい渋った。彼はどうしても素直な子供のように心持の好い返事を彼女に与える事が出来なかった。
健三を物にしようという御常の腹の中には愛に駆られる衝動よりも、むしろ慾《よく》に押し出される邪気が常に働いていた。それが頑是《がんぜ》ない健三の胸に、何の理窟なしに、不愉快な影を投げた。しかしその他《た》の点について彼は全くの無我夢中であった。
二人の生活は僅《わず》かの間《ま》しか続かなかった。物質的の欠乏が源因になったのか、または御常の再
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