縁が現状の変化を余儀なくしたのか、年歯《とし》の行かない彼にはまるで解らなかった。何しろ彼女はまた突然健三の眼から消えて失くなった。そうして彼は何時の間にか彼の実家へ引き取られていた。
「考えるとまるで他《ひと》の身の上のようだ。自分の事とは思えない」
健三の記憶に上《のぼ》せた事相は余りに今の彼と懸隔していた。それでも彼は他人の生活に似た自分の昔を思い浮べなければならなかった。しかも或る不快な意味において思い浮べなければならなかった。
「御常さんて人はその時にあの波多野《はたの》とかいう宅《うち》へまた御嫁に行ったんでしょうか」
細君は何年前か夫の所へ御常から来た長い手紙の上書《うわがき》をまだ覚えていた。
「そうだろうよ。己《おれ》も能《よ》く知らないが」
「その波多野という人は大方まだ生きてるんでしょうね」
健三は波多野の顔さえ見た事がなかった。生死《しょうし》などは無論考えの中になかった。
「警部だっていうじゃありませんか」
「何んだか知らないね」
「あら、貴夫《あなた》が自分でそう御仰《おっしゃ》ったくせに」
「何時《いつ》」
「あの手紙を私《わたくし》に御見せになった時よ」
「そうかしら」
健三は長い手紙の内容を少し思い出した。その中には彼女が幼い健三の世話をした時の辛苦ばかりが並べ立ててあった。乳がないので最初からおじや[#「おじや」に傍点]だけで育てた事だの、下性《げしょう》が悪くって寐小便《ねしょうべん》の始末に困った事だの、凡《すべ》てそうした顛末《てんまつ》を、飽きるほど委《くわ》しく述べた中に、甲府《こうふ》とかにいる親類の裁判官が、月々彼女に金を送ってくれるので、今では大変|仕合《しあわせ》だと書いてあった。しかし肝心の彼女の夫が警部であったかどうか、其所《そこ》になると健三には全く覚がなかった。
「ことによると、もう死んだかも知れないね」
「生きているかも分りませんわ」
二人の間には波多野の事ともつかず、また御常の事ともつかず、こんな問答が取り換わされた。
「あの人が不意に遣《や》って来たように、その女の人も、何時突然訪ねて来ないとも限らないわね」
細君は健三の顔を見た。健三は腕組をしたなり黙っていた。
四十五
健三も細君も御常の書いた手紙の傾向をよく覚えていた。彼女とはさして縁故のない人ですら、親切に毎月いく
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