すぐ涙を流す事の出来る重宝な女であった。健三をほんの小供だと思って気を許していた彼女は、その裏面をすっかり彼に曝露《ばくろ》して自《みず》から知らなかった。
或日一人の客と相対して坐っていた御常は、その席で話題に上《のぼ》った甲という女を、傍《はた》で聴いていても聴きづらいほど罵《ののし》った、ところがその客が帰ったあとで、甲がまた偶然彼女を訪ねて来た。すると御常は甲に向って、そらぞらしい御世辞を使い始めた。遂に、今誰さんとあなたの事を大変|賞《ほ》めていた所だというような不必要な嘘まで吐《つ》いた。健三は腹を立てた。
「あんな嘘を吐いてらあ」
彼は一徹な小供の正直をそのまま甲の前に披瀝《ひれき》した。甲の帰ったあとで御常は大変に怒《おこ》った。
「御前と一所にいると顔から火の出るような思をしなくっちゃならない」
健三は御常の顔から早く火が出れば好《い》い位に感じた。
彼の胸の底には彼女を忌み嫌う心が我知らず常にどこかに働らいていた。いくら御常から可愛《かあい》がられても、それに酬《むく》いるだけの情合《じょうあい》がこっちに出て来《き》得《え》ないような醜いものを、彼女は彼女の人格の中《うち》に蔵《かく》していたのである。そうしてその醜くいものを一番|能《よ》く知っていたのは、彼女の懐に温められて育った駄々《だだ》ッ子《こ》に外ならなかったのである。
四十三
その中《うち》変な現象が島田と御常との間に起った。
ある晩健三がふと眼を覚まして見ると、夫婦は彼の傍《そば》ではげしく罵《ののし》り合っていた。出来事は彼に取って突然であった。彼は泣き出した。
その翌晩も彼は同じ争いの声で熟睡を破られた。彼はまた泣いた。
こうした騒がしい夜が幾つとなく重なって行くに連れて、二人の罵る声は次第に高まって来た。しまいには双方とも手を出し始めた。打つ音、踏む音、叫ぶ音が、小さな彼の心を恐ろしがらせた。最初彼が泣き出すとやんだ二人の喧嘩《けんか》が、今では寐《ね》ようが覚めようが、彼に用捨なく進行するようになった。
幼稚な健三の頭では何のために、ついぞ見馴《みな》れないこの光景が、毎夜深更に起るのか、まるで解釈出来なかった。彼はただそれを嫌った。道徳も理非も持たない彼に、自然はただそれを嫌うように教えたのである。
やがて御常は健三に事実を話して聞かせ
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