増《ひまし》に募った。自分の好きなものが手に入《い》らないと、往来でも道端でも構わずに、すぐ其所《そこ》へ坐《すわ》り込んで動かなかった。ある時は小僧の脊中《せなか》から彼の髪の毛を力に任せて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り取った。ある時は神社に放し飼の鳩《はと》をどうしても宅《うち》へ持って帰るのだと主張してやまなかった。養父母の寵《ちょう》を欲しいままに専有し得《う》る狭い世界の中《うち》に起きたり寐《ね》たりする事より外に何にも知らない彼には、凡《すべ》ての他人が、ただ自分の命令を聞くために生きているように見えた。彼はいえば通るとばかり考えるようになった。
 やがて彼の横着はもう一歩深入りをした。
 ある朝彼は親に起こされて、眠い眼を擦《こす》りながら縁側《えんがわ》へ出た。彼は毎朝寐起に其所から小便をする癖を有《も》っていた。ところがその日は何時もより眠かったので、彼は用を足しながらつい途中で寐てしまった。そうしてその後《あと》を知らなかった。
 眼が覚めて見ると、彼は小便の上に転げ落ちていた。不幸にして彼の落ちた縁側は高かった。大通りから河岸《かし》の方へ滑り込んでいる地面の中途に当るので、普通の倍ほどあった。彼はその出来事のためにとうとう腰を抜かした。
 驚ろいた養父母はすぐ彼を千住《せんじゅ》の名倉《なぐら》へ伴《つ》れて行って出来るだけの治療を加えた。しかし強く痛められた腰は容易に立たなかった。彼は醋《す》の臭のする黄色いどろどろしたものを毎日局部に塗って座敷に寐ていた。それが幾日《いくか》続いたか彼は知らなかった。
「まだ立てないかい。立って御覧」
 御常は毎日のように催促した。しかし健三は動けなかった。動けるようになってもわざと動かなかった。彼は寐ながら御常のやきもきする顔を見てひそかに喜こんだ。
 彼はしまいに立った。そうして平生《へいぜい》と何の異なる所なく其所いら中歩き廻った。すると御常の驚ろいて嬉《うれ》しがりようが、如何《いか》にも芝居じみた表情に充ちていたので、彼はいっそ立たずにもう少し寐ていればよかったという気になった。
 彼の弱点が御常の弱点とまともに相摶《あいう》つ事も少なくはなかった。
 御常は非常に嘘《うそ》を吐《つ》く事の巧《うま》い女であった。それからどんな場合でも、自分に利益があるとさえ見れば、
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