たりして喜こんだ。彼は新らしい独楽《こま》を買ってもらって、時代を着けるために、それを河岸際《かしぎわ》の泥溝《どぶ》の中に浸けた。ところがその泥溝は薪積場《まきつみば》の柵《さく》と柵との間から流れ出して河へ落ち込むので、彼は独楽の失くなるのが心配さに、日に何遍となく扱所の土間を抜けて行って、何遍となくそれを取り出して見た。そのたびに彼は石垣の間へ逃げ込む蟹《かに》の穴を棒で突ッついた。それから逃げ損なったものの甲を抑えて、いくつも生捕《いけど》りにして袂《たもと》へ入れた。……
要するに彼はこの吝嗇な島田夫婦に、よそから貰《もら》い受けた一人っ子として、異数の取扱いを受けていたのである。
四十一
しかし夫婦の心の奥には健三に対する一種の不安が常に潜んでいた。
彼らが長火鉢《ながひばち》の前で差向いに坐《すわ》り合う夜寒《よさむ》の宵などには、健三によくこんな質問を掛けた。
「御前の御父《おとっ》ッさんは誰だい」
健三は島田の方を向いて彼を指《ゆびさ》した。
「じゃ御前の御母《おっか》さんは」
健三はまた御常の顔を見て彼女を指さした。
これで自分たちの要求を一応満足させると、今度は同じような事を外の形で訊《き》いた。
「じゃ御前の本当の御父さんと御母さんは」
健三は厭々《いやいや》ながら同じ答を繰り返すより外に仕方がなかった。しかしそれが何故《なぜ》だか彼らを喜こばした。彼らは顔を見合せて笑った。
或時はこんな光景が殆《ほと》んど毎日のように三人の間に起った。或時は単にこれだけの問答では済まなかった。ことに御常は執濃《しつこ》かった。
「御前はどこで生れたの」
こう聞かれるたびに健三は、彼の記憶のうちに見える赤い門――高藪《たかやぶ》で蔽《おお》われた小さな赤い門の家《うち》を挙げて答えなければならなかった。御常は何時この質問を掛けても、健三が差支《さしつかえ》なく同じ返事の出来るように、彼を仕込んだのである。彼の返事は無論器械的であった。けれども彼女はそんな事には一向|頓着《とんじゃく》しなかった。
「健坊《けんぼう》、御前本当は誰の子なの、隠さずにそう御いい」
彼は苦しめられるような心持がした。時には苦しいより腹が立った。向うの聞きたがる返事を与えずに、わざと黙っていたくなった。
「御前誰が一番好きだい。御父ッさん? 御母さん
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