藍堂《がらんどう》の如く淋《さび》しく見せた。彼は高い所にいた。其所で弁当を食った。そうして油揚《あぶらげ》の胴を干瓢《かんぴょう》で結《いわ》えた稲荷鮨《いなりずし》の恰好《かっこう》に似たものを、上から下へ落した。彼は勾欄《てすり》につらまって何度も下を覗《のぞ》いて見た。しかし誰もそれを取ってくれるものはなかった。伴《つれ》の大人はみんな正面に気を取られていた。正面ではぐらぐらと柱が揺れて大きな宅が潰《つぶ》れた。するとその潰れた屋根の間から、髭《ひげ》を生やした軍人《いくさにん》が威張って出て来た。――その頃の健三はまだ芝居というものの観念を有《も》っていなかったのである。
彼の頭にはこの芝居と外《そ》れ鷹《たか》とが何の意味なしに結び付けられていた。突然鷹が向うに見える青い竹藪《たけやぶ》の方へ筋違《すじかい》に飛んで行った時、誰だか彼の傍《そば》にいるものが、「外《そ》れた外れた」と叫けんだ。すると誰だかまた手を叩《たた》いてその鷹を呼び返そうとした。――健三の記憶は此所《ここ》でぷつりと切れていた。芝居と鷹とどっちを先に見たのか、それさえ彼には不分明《ふぶんみょう》であった。従って彼が田圃《たんぼ》や藪《やぶ》ばかり見える田舎に住んでいたのと、狭苦しい町内の往来に向いた薄暗い宅に住んでいたのと、どっちが先になるのか、それも彼にはよく判明《わか》らなかった。そうしてその時代の彼の記憶には、殆《ほと》んど人というものの影が働らいていなかった。
しかし島田夫婦が彼の父母として明瞭《めいりょう》に彼の意識に上《のぼ》ったのは、それから間もない後《あと》の事であった。
その時夫婦は変な宅にいた。門口《かどぐち》から右へ折れると、他《ひと》の塀際《へいぎわ》伝いに石段を三つほど上《あが》らなければならなかった。そこからは幅三尺ばかりの露地《ろじ》で、抜けると広くて賑《にぎ》やかな通りへ出た。左は廊下を曲って、今度は反対に二、三段下りる順になっていた。すると其所に長方形の広間があった。広間に沿うた土間《どま》も長方形であった。土間から表へ出ると、大きな河が見えた。その上を白帆《しらほ》を懸けた船が何艘《なんぞう》となく往《い》ったり来たりした。河岸《かし》には柵《さく》を結《い》った中へ薪《まき》が一杯積んであった。柵と柵の間にある空地《あきち》は、だらだら下
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