の広い宅《うち》には人が誰も住んでいなかった。それを淋《さみ》しいとも思わずにいられるほどの幼ない彼には、まだ家というものの経験と理解が欠けていた。
彼はいくつとなく続いている部屋だの、遠くまで真直《まっすぐ》に見える廊下だのを、あたかも天井の付いた町のように考えた。そうして人の通らない往来を一人で歩く気でそこいら中|馳《か》け廻った。
彼は時々表二階《おもてにかい》へ上《あが》って、細い格子《こうし》の間から下を見下した。鈴を鳴らしたり、腹掛《はらがけ》を掛けたりした馬が何匹も続いて彼の眼の前を過ぎた。路《みち》を隔てた真ん向うには大きな唐金《からかね》の仏様があった。その仏様は胡坐《あぐら》をかいて蓮台《れんだい》の上に坐《すわ》っていた。太い錫杖《しゃくじょう》を担いでいた、それから頭に笠《かさ》を被《かぶ》っていた。
健三は時々薄暗い土間《どま》へ下りて、其所《そこ》からすぐ向側《むこうがわ》の石段を下りるために、馬の通る往来を横切った。彼はこうしてよく仏様へ攀《よ》じ上《のぼ》った。着物の襞《ひだ》へ足を掛けたり、錫杖の柄《え》へ捉《つら》まったりして、後《うしろ》から肩に手が届くか、または笠に自分の頭が触れると、その先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。
彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来から細い小路《こうじ》を二十間も折れ曲って這入《はい》った突き当りにあった。その奥は一面の高藪《たかやぶ》で蔽《おお》われていた。
この狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があった。健三の記憶の中に出てくるその坂は、不規則な石段で下から上まで畳み上げられていた。古くなって石の位置が動いたためか、段の方々には凸凹《でこぼこ》があった。石と石の罅隙《すきま》からは青草が風に靡《なび》いた。それでも其所は人の通行する路に違なかった。彼は草履《ぞうり》穿《ばき》のままで、何度かその高い石段を上《のぼ》ったり下《さが》ったりした。
坂を下り尽すとまた坂があって、小高い行手に杉の木立《こだち》が蒼黒《あおぐろ》く見えた。丁度その坂と坂の間の、谷になった窪地《くぼち》の左側に、また一軒の萱葺《かやぶき》があった。家は表から引込《ひっこ》んでいる上に、少し右側の方へ片寄っていたが、往来に面した一部分には掛茶屋《
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