喧嘩《けんか》をして、もう向うから謝罪《あやま》って来ても勘忍してやらないと覚悟を極《き》めたが、いくら待っていても、姉が詫《あや》まらないので、仕方なしにこちらからのこのこ出掛けて行ったくせに、手持無沙汰《てもちぶさた》なので、向うで御這入《おはい》りというまで、黙って門口《かどぐち》に立っていた滑稽《こっけい》もあった。……
古い額を眺めた健三は、子供の時の自分に明らかな記憶の探照燈を向けた。そうしてそれほど世話になった姉夫婦に、今は大した好意を有《も》つ事が出来にくくなった自分を不快に感じた。
「近頃は身体《からだ》の具合はどうです。あんまり非道《ひど》く起る事もありませんか」
彼は自分の前に坐《すわ》った姉の顔を見ながらこう訊《たず》ねた。
「ええ有難う。御蔭さまで陽気が好《い》いもんだから、まあどうかこうか家の事だけは遣ってるんだけれども、――でもやっぱり年が年だからね。とても昔しのようにがせい[#「がせい」に傍点]に働く事は出来ないのさ。昔健ちゃんの遊《あす》びに来てくれた時分にゃ、随分|尻《しり》ッ端折《ぱしょ》りで、それこそ御釜《おかま》の御尻まで洗ったもんだが、今じゃとてもそんな元気はありゃしない。だけど御蔭様でこう遣って毎日牛乳も飲んでるし……」
健三は些少《さしょう》ながら月々いくらかの小遣を姉に遣《や》る事を忘れなかったのである。
「少し痩《や》せたようですね」
「なにこりゃ私《あたし》の持前《もちまえ》だから仕方がない。昔から肥《ふと》った事のない女なんだから。やッぱり癇《かん》が強いもんだからね。癇で肥る事が出来ないんだよ」
姉は肉のない細い腕を捲《まく》って健三の前に出して見せた。大きな落ち込んだ彼女の眼の下を薄黒い半円形の暈《かさ》が、怠《だる》そうな皮で物憂《ものう》げに染めていた。健三は黙ってそのぱさぱさした手の平を見詰めた。
「でも健ちゃんは立派になって本当に結構だ。御前さんが外国へ行く時なんか、もう二度と生きて会う事は六《む》ずかしかろうと思ってたのに、それでもよくまあ達者で帰って来られたのね。御父《おとっ》さんや御母《おっか》さんが生きて御出だったらさぞ御喜びだろう」
姉の眼にはいつか涙が溜《たま》っていた。姉は健三の子供の時分、「今に姉さんに御金が出来たら、健ちゃんに何でも好なものを買って上げるよ」と口癖《くちく
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