た昔に比べると、今の兄は全く色気が抜けていた。その代り膏気《あぶらっけ》もなかった。彼はぱさぱさした手で、汚れた風呂敷の隅を抓《つま》んで、それを鄭寧《ていねい》に折った。
「こりゃ好い袴だね。近頃|拵《こしら》えたの」
「いいえ。なかなかそんな勇気はありません。昔からあるんです」
細君は結婚のときこの袴を着けて勿体《もったい》らしく坐《すわ》った夫の姿を思いだした。遠い所で極《ごく》簡略に行われたその結婚の式に兄は列席していなかった。
「へええ。そうかね。なるほどそういわれるとどこかで見たような気もするが、しかし昔のものはやっぱり丈夫なんだね。ちっとも敗《いた》んでいないじゃないか」
「滅多に穿《は》かないんですもの。それでも一人でいるうちに能《よ》くそんな物を買う気になれたのね、あの人が。私《わたくし》今でも不思議だと思いますわ」
「あるいは婚礼の時に穿くつもりでわざわざ拵えたのかも知れないね」
二人はその時の異様な結婚式について笑いながら話し合った。
東京からわざわざ彼女を伴《つ》れて来た細君の父は、娘に振袖《ふりそで》を着せながら、自分は一通りの礼装さえ調《ととの》えていなかった。セルの単衣《ひとえ》を着流しのままでしまいには胡坐《あぐら》さえ掻《か》いた。婆《ばあ》さん一人より外に誰も相談する相手のない健三の方ではなおの事困った。彼は結婚の儀式について全くの無方針であった。もともと東京へ帰ってから貰《もら》うという約束があったので、媒酌人《なこうど》もその地にはいなかった。健三は参考のためこの媒酌人が書いて送ってくれた注意書《ちゅういしょ》のようなものを読んで見た。それは立派な紙に楷書《かいしょ》で認《したた》められた厳《いか》めしいものには違なかったが、中には『東鑑《あずまかがみ》』などが例に引いてあるだけで、何の実用にも立たなかった。
「雌蝶《めちょう》も雄蝶《おちょう》もあったもんじゃないのよ貴方《あなた》。だいち御盃《おさかずき》の縁が欠けているんですもの」
「それで三々九度を遣《や》ったのかね」
「ええ。だから夫婦中《ふうふなか》がこんなにがたぴしするんでしょう」
兄は苦笑した。
「健三もなかなかの気六《きむ》ずかしやだから、御住《おすみ》さんも骨が折れるだろう」
細君はただ笑っていた。別段兄の言葉に取り合う気色《けしき》も見えなかった
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