い出して、まだ句を切らないうちに、君は「いや低気圧《ていきあつ》のある間は来客謝絶だ」と云った。低気圧とは何の事だか、君の平生を知らない余には不得要領《ふとくようりょう》であったけれど、来客謝絶の四字の方が重く響いたので、聞き返しもしなかった。ただ好い加減に頭の悪い事を低気圧と洒落《しゃれ》ているんだろうぐらいに解釈していたが、後《あと》から聞けば実際の低気圧の事で、いやしくも低気圧の去らないうちは、君の頭は始終|懊悩《おうのう》を離れないんだという事が分った。当時余も君の向うを張って来客謝絶の看板を懸《か》けていた。もっともこれは創作の低気圧のためであったけれども、来客謝絶は表向き双方同じ事なんだから、この看板を引き下ろさせるだけの縁故も親しみもない両人は、それきり面談をする機会がなかった。
ところがある日の午後湯に行った。着物を脱いで、流しへ這入ろうとして、ふと向うむきになって洗っている人の横顔を見ると、長谷川君である。余は長谷川さんと声をかけた。それまではまるで気がつかなかった君は、顔を上げて、やあと云った。湯の中ではそれぎりしか口を利《き》かなかった。何でも暑い時分の事と覚え
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