は自分と離れているから生徒の動作だけを形式的に研究する事はできても、事実生徒になって考える事は覚束《おぼつか》ないのと一般である。傍観者と云うものは岡目八目とも云い、当局者は迷うと云う諺《ことわざ》さえあるくらいだから、冷静に構える便宜があって観察する事物がよく分る地位には違ありませんが、その分り方は要するに自分の事が自分に分るのとは大いに趣を異にしている。こういう分り方で纏《まと》め上げたものは器械的に流れやすいのは当然でありましょう。換言すれば形式の上ではよく纏まるけれども、中味から云うといっこう纏っていないというような場合が出て来るのであります。がつまり外からして観察をして相手を離れてその形をきめるだけで内部へ入り込んでその裏面の活動からして自《おのず》から出る形式を捉《とら》え得ないという事になるのです。
これに反して自《みず》から活動しているものはその活動の形式が明かに自分の頭に纏って出て来ないかも知れない代りに、観察者の態度を維持しがちの学者のように表面上の矛盾などを無理に纏めようとする弊害には陥る憂《うれい》がない。さきほどオイケンの批評をやって形式上の矛盾を中味の矛盾
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