合せの定規《じょうぎ》で間に合せたくなるのは今申す通り門外漢の通弊でありますが、私の見るところでは豈独《あにひと》り門外漢のみならんやで、専門の学者もまたそう威張れた義理でもないような概括をして平気でいるのだから驚かれるのです。
 学者と云うものは、いろいろの事実を集めて法則を作ったり概括を致します。あるいは何主義とか号してその主義を一纏《ひとまと》めに致します。これは科学にあっても哲学にあっても必要の事であり、また便宜な事で誰しもそれに異存のあるはずはございません。例えば進化論とか、勢力保存とか云うとその言葉自身が必要であるばかりでなく、実際の事実の上において役に立っています。けれども悪くすると前《ぜん》申した子供や門外漢と同じように、内容にあまり合わない形式を拵えてただ表面上の纏りで満足している事が往々あるように思います。この間私は或学者の書いた本を読みました。それはオイケンと云って、近頃|独逸《ドイツ》で、有名な学者の著わしたものであります。もっともたくさんの著述のうちでごく短かい一冊を読んだだけでありますが、とにかくその人の説の中にこういう事が書いてありました。現代の人はしきり
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