ぼ》の自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」
 私は太田南畝という人を知らなかった。
「太田南畝っていったい何だい」
「蜀山人《しょくさんじん》の事さ。有名な蜀山人さ」
 無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と訊《き》いて見た。
「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」
 私は考えた。そうして何しろ価切《ねぎ》って見るのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買っても好い」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
 喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほど嬉《うれ》しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜|南畝莠言《なんぽしゆうげん》――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。

        三十二

 翌日《あくるひ》になると、喜いちゃんがまた
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