た。私は微笑に伴なうその挨拶《あいさつ》とともに、相手が、大塚楠緒《おおつかくすお》さんであった事に、始めて気がついた。
次に会ったのはそれから幾日目《いくかめ》だったろうか、楠緒《くすお》さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方《かた》かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧《あか》らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
それからずっと経《た》って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪《たず》ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻《さい》と喧嘩《けんか》をしていた。私は厭《いや》な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫《あや》まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々《にがにが》しい顔を見せるのも
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