》る汚《きた》ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗《わ》びしかった。始終《しじゅう》通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹《ひ》くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕《ふしょく》するような不愉快な塊《かたまり》が常にあった。私は陰欝《いんうつ》な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
日蔭町《ひかげちょう》の寄席《よせ》の前まで来た私は、突然一台の幌俥《ほろぐるま》に出合った。私と俥の間には何の隔《へだた》りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚《みと》れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》を私にして通り過ぎ
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