《ねざめ》が悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
 元日に込《こ》み合《あ》った私の座敷は、二日になって淋《さび》しいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういう憐《あわ》れな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客は真面目《まじめ》な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど艶《つや》っぽい言葉を使わなかった。

        二十五

 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通《きりどお》しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋《ぎゅうや》の傍《そば》に、寄席《よせ》の看板がいつでも懸《かか》っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論|傘《かさ》をさしていた。それが鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張で、上から洩《も》ってくる雫《しずく》が、自然木《じねんぼく》の柄《え》を伝わって、私の手を濡《ぬ》らし始めた。人通りの少ないこの小路《こうじ》は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄《あしだ》の歯に引《ひ》っ懸《かか
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